おいで、あっちへ……。ここには用はないよ!」
こうして日が日にかさなり、年が年にかさなって、――なんの喜びもなければ、なんの意見というものもない。炊事女のマーヴラの言うことなら、それで結構というあんばいだった。
七月のある暑い日のこと、ちょうど夕暮ちかくで町の家畜の群が往来をぞろぞろ追われて行き、中庭いちめんにもうもうと埃がたちこめる時刻だったが、とつぜん誰か木戸をこつこつと叩く人があった。オーレンカは自分で開けに立って行って、一目みるとそのままぼおっと気が遠くなってしまった。門の外に立っていたのは獣医のスミールニンで、もはや白髪頭になって、みなりも平服姿だった。彼女はたちまち一切が思い出されて、つい堪えかねてわっと泣き出すと、一言の口もきかずに男の胸へ顔をうずめてしまい、あまりの興奮に前後を忘れて、それから二人がどこをどうして家の中へはいり、どんなぐあいにお茶のテーブルに坐ったかも気づかないほどだった。
「まあお珍しい!」と彼女は、うれしさにぶるぶる顫えながら口ごもった。「ヴラヂーミル・プラトーヌィチ! いったいどこから、どうした風の吹きまわしでいらしたの?」
「実はここにすっかり住みつこうと思いましてね」と彼は話すのだった。「軍隊の方をやめてこうしてこの町へやって来たのは、一つ自由の身になって運だめしをしてみよう、一ところに根のすわった生活をしてみようという考えからなんです。それに息子ももう中学へ上げる年ごろですしね。大きくなりましたよ。僕も実はその、家内と仲直りをしましてねえ」
「で今どこに奥さんいらっしゃるの?」とオーレンカは尋ねた。
「息子と一緒に宿屋にいますがね、僕はこの通り歩きまわって貸家さがしというわけなんです」
「あら、それじゃあなた、いっそ私のこの家になさいましよ! これでも結構住めるじゃありませんか? ああそれがいいわ、それにあたし、お家賃なんか一文だっていただかないわ」とオーレンカは興奮しはじめ、またもや泣きだした。「あなた方はこっちに住んでちょうだい、あたしは向こうの離れで結構だわ。あああたし、ほんとにうれしい!」
翌日はさっそく母屋《おもや》の屋根のペンキ塗りや、壁のお化粧がはじまって、オーレンカは両手を腰に肘《ひじ》を張って、庭をあちこち歩きながら采配を振るっていた。その顔には昔のあの微笑がかがやきだして、全身いきいきと元気づいた
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