りが何のためにあるのやら、それにどんな意味があるのやら、それが言えず、仮に千ルーブルやると言われたって何の返事もできないに違いない。クーキンやプストヴァーロフがついていてくれた頃も、またその後で、獣医がついていてくれた時も、オーレンカは説明のつかないことは一つもなかったし、どんな問題を出されても自分の意見を述べるに不自由しなかったものだが、それが今ではむらがる想いの間《あわい》にも心の内部にも、ちょうどわが家の庭そっくりのがらんどうが出来てしまっていた。その何ともいえぬ気味わるさ、何ともいえぬ口の苦さは、艾《よもぎ》をどっさり食べたあとのようだった。
 町は次第に四方へひろがって行った。ジプシー部落も今では通りと名が変わり、例の『ティヴォリ』遊園や材木置場のあったあたりには、はや家が立ち並んで、横町がいくつもできていた。時のたつのは何と早いものだろう! オーレンカの家は煤《すす》ぼけて、屋根は錆《さ》び、納屋はかしぎ、庭には丈の高い雑草や刺《とげ》のある蕁麻《いらくさ》がいっぱいにはびこってしまった。当のオーレンカも老《ふ》け込んで器量が落ちた。夏になると彼女は例の段々に坐っているが、その胸のうちは相変らずがらんとして、味気なく、例の苦艾《にがよもぎ》の後味がしていたし、冬は冬で彼女は窓ぎわに坐って、じっと雪を見つめている。春の息吹きがそよりとでもしたり、風のまにまに寺院の鐘の音がつたわって来たりすると、突然どっとばかり過去の追憶が押しよせて、あまく胸がしめつけられ、眼からは涙がとめどなく流れるけれど、それもほんの束《つか》の間《ま》のことで、胸のなかは再びがらんとしてしまい、何を甲斐《かい》に生きているのやらつくづく分からなくなる。黒い小猫のブルイスカが甘えかかって、ごろごろと柔《やさ》しく喉を鳴らすけれど、こうして猫なんぞにちやほやされてみたところで、オーレンカにはさっぱり有難くない。彼女の求めているのはそんなものだろうか? いやいや彼女の欲しいのは、同じ愛といっても自分の全身全霊を、魂のありったけ理性のありったけを、ぎゅっと引っつかんでくれるような愛、自分に思想を、生活の方向を与えてくれるような愛、自分の老い衰えてゆく血潮を温めてくれるような愛なのだ。で彼女は黒いブルイスカを裾《すそ》から振り払って、いまいましげにこう極《き》めつけるのだった。――
「あっちへ
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