彼は遠慮会釈もなくその家へ押しかけて、ありったけの部屋を端から通り抜けながら、着るや着ずの姿で彼の方を驚き怖れつつ眺めている女子どもには目もくれずに、扉口《とぐち》へ一々ステッキを突っ込んではこう言うのである。――
「これが書斎か? これは寝室だな? そっちは何だ?」
 そう言いながらふうふう息をついて、額の汗をぬぐうのである。
 彼は用事が山ほどあるくせに、それでも郡会医の椅子は投げ出さない。欲の一念にとっつかれてしまって、そっちもこっちも間に合わせたいのである。ヂャリージでも町でも彼のことを簡単にイオーヌィチと呼んでいる。――『イオーヌィチはどこへお出掛けかな?』とか、『イオーヌィチを立会いに頼むとしようか?』とかいったぐあいに。
 咽喉《のど》が脂肪ぶくれに腫《は》れふさがったせいだろうが、彼は声変りがして、ほそい甲高い声になった。性格も一変して、気むずかしい癇癪もちになった。患者を診察する時も、まず大抵はぷりぷりしていて、もどかしげにステッキの先で床をこつこつやりながら、例の感じのわるい声でどなり立てるのである。――
「お訊《たず》ねすることだけにお答えなさい! おしゃべりはし
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