いるもののように考えた。するとその時はじめて彼は誰かが自分をじっと見ているような気がして、いやいやこれは安息でも静寂でもないのだ、じつは無に帰したものの遣瀬《やるせ》ない憂愁《ゆうしゅう》、抑えに抑えつけられた絶望なのだと、ひとしきりそんなことを考えた。……
 デメッティの記念碑は礼拝堂のような恰好《かっこう》をして、天辺《てっぺん》には天使の像がついていた。いつぞやイタリヤの歌劇団が旅のついでにS市に立ち寄ったことがあるが、その歌姫の一人がみまかってここに葬られ、この記念碑が建立《こんりゅう》されたのであった。町ではもう誰一人その女のことを覚えている人はないが、入口の上のところについている燈明が月の光を照り返して、さながら燃えているようだった。
 人影はなかった。まったく誰がこの真夜中にこんな所へやって来るだろう? しかしスタールツェフは待っていた。まるで月の光が彼の身うちの情熱を暖めでもしたように、燃えるような気持で待ちつづけながら、接吻や抱擁《ほうよう》をしきりに想像に描いていた。彼は記念碑のほとりにものの半時ほど腰かけていたが、やがて帽子を片手にわき径《みち》からわき径へとひと
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