楓の葉が、並木路の黄色い砂の上や墓石の上にくっきりと影を描いて、石碑の文字も明らかに浮かび出ていた。初めのうちスタールツェフは、自分が生涯にいま初めて目にし、そして恐らくもう二度と再び目にする機会はあるまいと思われるこの光景に、すっかり心を打たれてしまった。それは他の何ものにも比べようのない世界、――まるでここが月光の揺籃《ゆりかご》ででもあるかのように、月の光がいかにもめでたくいかにも柔《やさ》しくまどろんでいる世界、そこには生の気配などいくら捜してもありはしないけれど、しかし黒々としたポプラの一本一本、墓の盛土の一つ一つに、静かな、すばらしい、永遠の生を約束してくれる神秘のこもっていることの感じられる、そのような世界であった。墓石からも凋《しぼ》んだ花からも、秋の朽葉《くちば》の匂いをまじえて、罪の赦《ゆる》し、悲哀、それから安息がいぶいて来るのだった。
 あたりは沈黙だった。この深い和らぎの中に、大空からは星がみおろしていて、スタールツェフの足音がいかにも鋭く、心なく響きわたるのだった。やがてお寺で夜半の祈祷《きとう》の鐘が鳴りだすと、彼はふと自分が死んで、ここに永遠に埋められて
前へ 次へ
全49ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
チェーホフ アントン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング