ぱかりの疲労も感ぜず、それどころかまだ五里ぐらいは平気で歩けそうな気がした。
『悪しくはないて……』うとうとしながら彼はふと思い出して、声に出して笑った。

       二

 スタールツェフはトゥールキン家へ行こう行こうと思い暮しながら、病院の仕事がひどく多忙で、いっかな手すきの時間が得られなかった。そんなふうで一年あまりの時が勤労と孤独のうちに過ぎた。ところが図らずもある日、町から水いろの封筒にはいった手紙がとどいた。
 ヴェーラ・イオーシフォヴナはもう久しい以前から偏頭痛に悩まされていたが、それが最近、猫ちゃんが毎日のように音楽学校へ行く行くと威《おど》かすようになってからは、発作がますます頻繁になって来た。トゥールキン家へは町の医者が入れ代り立ち代り残らずやって来たが、とうとうしまいに郡会医の呼び出される番になったのである。ヴェーラ・イオーシフォヴナの手紙は思わずほろりとさせるような調子で、どうぞ御来駕《ごらいが》のうえわたくしの苦しみを和らげて下さいましと頼んでいた。スタールツェフはやって来たが、それ以来というもの彼は繁々《しげしげ》と、すこぶる繁々とトゥールキン家の閾《し
前へ 次へ
全49ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
チェーホフ アントン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング