べからくその余暇を社交にお割《さ》きになるべきだってね。そうじゃないかい、ねえお前?」
「こちらへお掛け遊ばせな」とヴェーラ・イオーシフォヴナは、お客を自分の傍へ坐らせながら言った。「あなたこの私に慇懃《いんぎん》をお寄せ下さいますでしょうねえ。宅は焼餅《やきもち》やきですの、あのオセロなんですのよ。でも私たち、宅に何一つ気《け》どられないようにうまく立ちまわりましょうねえ」
「ええ、この甘ったれの雛《ひよ》っ子さん……」イヴァン・ペトローヴィチは優しくつぶやいて、妻の額《ひたい》に接吻《せっぷん》をして、「あなたは実によい時においでになったんですよ」とまた客の方へ話しかけた。「わが最愛の妻が一大長編を書き上げましてね、今日それを朗読することになっていますので」
「ちょいとジャン」とヴェーラ・イオーシフォヴナが良人《おっと》に言った。「|〔dites que l'on nous donne du the'.〕《おちゃをそういってくださいましな》」
 スタールツェフはエカテリーナ・イヴァーノヴナにも引き合わされた。これは十八になる娘さんで、すこぶるお母さん似の、やっぱり瘠せぎすな愛くるしい人だった。その表情はまだ子ども子どもしていて、腰つきも細っそりと華奢《きゃしゃ》だったが、いかにも処女《おとめ》らしいすでにふっくらと発達した胸は、美しく健康そうで、青春を、まぎれもない青春を物語っていた。さてそれからみんなでお茶を飲んで、ジャムだの蜂蜜だのボンボンだの、口へ入れるとたんに溶けてしまうすこぶるおいしいお菓子だのを風味した。夕暮が迫るにつれてだんだんとお客が集まって来たが、その一人一人にイヴァン・ペトローヴィチは例の笑《え》みこぼれるような眼を向けて、こう挨拶するのであった。――
「ようこそどうぞ」
 やがて一同そろって客間へ通って、すこぶる真面目くさった顔つきで席におさまると、いよいよヴェーラ・イオーシフォヴナが自作の小説を朗読するのだった。彼女はこんなふうに始めた。――『凍《い》てはますますきびしくなって……』窓がみんな一杯に開け放してあるので、台所で庖丁をとんとんいわせる音が聞こえ、玉ねぎを揚げるにおいが漂って来た。……深々とやわらかなソファはいい坐り心地だったし、客間の夕闇のなかには灯《あか》りがいかにも優しげに瞬《またた》いていた。そして今この夏の夕ぐれに、往来からは人声や笑いごえが伝わって来るし、庭からは紫丁香花《はしどい》の匂いの流れて来るなかで、凍てがますますきびしくなって、沈みゆく太陽がその寒々《さむざむ》とした光線で雪の平原を照らしたり、ひとり淋《さび》しく道をゆく旅人を照らしたりしている光景をしみじみ味わい知れというのは、無理な注文というものであった。ヴェーラ・イオーシフォヴナの朗読は進んで、うら若い美貌《びぼう》の伯爵夫人がその持村に小学校や病院や図書館を建てる、それから彼女は漂泊の画家に恋してしまう――といったふうな、ついぞこの人生にありようもない絵そら事を読み上げて行くのだったが、それでもやっぱり聴いているのは楽しくいい気持で、脳裡《のうり》には絶え間なくいかにも立派な安らかな想いが浮かんで来て、――所詮《しょせん》たちあがる気にはなれなかった。
「悪《あ》しくもないて……」とイヴァン・ペトローヴィチが小声で感想を漏らした。
 すると客の一人が、拝聴しながら想いをどこやら千里の外に飛ばしていたと見え、やっと聞きとれるほどの声でとんちんかんな相づちをうった。――
「いや……実にさようで……」
 一時間たち、二時間たった。すぐ近所の市立公園ではオーケストラが音楽を奏《かな》で、合唱団が歌をうたっていた。やがてヴェーラ・イオーシフォヴナがその手帳を閉じたとき、一同はものの五分ほど沈黙のままで、合唱団のうたっている『*榾《ほだ》あかり』の唄に耳を傾けていた。この唄は、いまの小説の中にこそなかったけれど人生にはよくあることを伝えているのだった。
「御作品は雑誌などに発表なさるのですか?」と、スタールツェフはヴェーラ・イオーシフォヴナに聞いた。
「いいえ」と彼女は答えた。「どちらへも発表はいたしませんわ。書いては戸棚の中にしまっておきますの。発表して何に致しましょう?」とその理由を説明して、「だって私どもには財産がございますもの」
 すると一同はなぜかしら溜息《ためいき》をついた。
「さあ今度はお前さんの番だよ、猫ちゃん、何か一つ弾《ひ》いてごらん」とイヴァン・ペトローヴィチが娘に向かって言った。
 召使たちがグランド・ピアノの蓋《ふた》をもち上げ、もうちゃんと用意のしてあった譜本を押しひらいた。エカテリーナ・イヴァーノヴナは席について、両手でもってキーをがんと叩いた。かと思う間もなく、またもや力任せに叩きつけた。そ
前へ 次へ
全13ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
チェーホフ アントン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング