彼は遠慮会釈もなくその家へ押しかけて、ありったけの部屋を端から通り抜けながら、着るや着ずの姿で彼の方を驚き怖れつつ眺めている女子どもには目もくれずに、扉口《とぐち》へ一々ステッキを突っ込んではこう言うのである。――
「これが書斎か? これは寝室だな? そっちは何だ?」
 そう言いながらふうふう息をついて、額の汗をぬぐうのである。
 彼は用事が山ほどあるくせに、それでも郡会医の椅子は投げ出さない。欲の一念にとっつかれてしまって、そっちもこっちも間に合わせたいのである。ヂャリージでも町でも彼のことを簡単にイオーヌィチと呼んでいる。――『イオーヌィチはどこへお出掛けかな?』とか、『イオーヌィチを立会いに頼むとしようか?』とかいったぐあいに。
 咽喉《のど》が脂肪ぶくれに腫《は》れふさがったせいだろうが、彼は声変りがして、ほそい甲高い声になった。性格も一変して、気むずかしい癇癪もちになった。患者を診察する時も、まず大抵はぷりぷりしていて、もどかしげにステッキの先で床をこつこつやりながら、例の感じのわるい声でどなり立てるのである。――
「お訊《たず》ねすることだけにお答えなさい! おしゃべりはしないで!」
 彼は孤独である。来る日も来る日も退屈で、彼の興味をひくものは何一つない。
 彼がヂャリージに住むようになってから今日までを通じて、猫ちゃんに恋したことが後にも先にもたった一つの、そして恐らくはこれを最後の悦《よろこ》びごとであった。毎ばん彼はクラブへ行って|カルタ遊び《ヴィント》をやり、それから一人っきりで大きな食卓へ向かって夜食をとる。彼の給仕をするのはイヴァンという一番年のいった長老株のボーイで、十七番の*ラフィットを出すのがおきまりだが、今ではもうクラブの世話人からコックやボーイに至るまで、一人のこらず彼の好き嫌いを呑み込んでいて、ひたすらお気に召すようにと精根を傾けている。やりそこなったら最後、まず碌《ろく》なことはなく、やにわに怫然《ふつぜん》と色をなして、ステッキで床をこつこつやりだすのが落ちである。
 夜食をやりながら、彼は時によると振り返って、何かの話に割り込んで来ることもある。――
「それはあなた何のお話ですかな? はあ? 誰の?」
 またどこか近所の食卓で、談たまたまトゥールキン家のことに及んだりすると、彼はこんなふうにたずねる。――
「それはあなた、
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