ミートリイ・イオーヌィチ』と発音したとたんに例の『アレクセイ・フェオフィラークトィチ』を思い出したからだった)、ねえドミートリイ・イオーヌィチ、あなたは親切な立派な聡明なかたですわ、あなた他のどなたより優れた方ですわ……」と言った彼女の眼には涙がにじみ出た、「わたくし心の底から御同情いたしますわ、けれど……けれどあなたも分かって下さいますわね……」
そして、泣きだすまいとして、彼女はくるりと身をひるがえすと、客間を出て行ってしまった。
スタールツェフは、今の今まで不安げに打っていた動悸がぱったり止《や》んでしまった。クラブを出て往来に立つと、彼はまず第一にこちこちのネクタイを襟《えり》もとから引んもぎって、胸いっぱいにふうっと息をついた。彼は少々恥ずかしくもあり、自尊心も傷つけられていたし、――まさか拒絶されようとは思いもかけなかったので、――おまけに自分があれほどに夢み、悩み、望んでいたことの一切が、まるで素人芝居のけちな脚本にでもあるようなこんな馬鹿げた結末を告げたなどとは、とても信じる気にはなれずにいた。そして自分の感情が、この自分の恋がいかにも不憫《ふびん》でならず、その不憫さのあまりいきなり手放しでおいおい泣き出すか、さもなければ蝙蝠傘《こうもりがさ》でもってパンテレイモンの幅びろな肩を、力任せにどやしつけるかしたい気がするのだった。
それから三日ほどはてんで何事も手につかず、食事もしなければ眠りもしなかったが、やがてエカテリーナ・イヴァーノヴナが音楽学校にはいりにモスクヴァへ出発したという噂が耳にとどくと、彼はやっと落ち着きを取り戻して、また元の生活に返った。
そののち、自分があの晩、墓地をほっつき歩いたり、町じゅう駈けずりまわって燕尾服をさがしたりしたことを時たま思い出すと、彼はだるそうに伸びをして、こう言うのだった。――
「御苦労千万なことさ、何しろ!」
四
四年たった。今ではもうスタールツェフには町にもたくさん患家があった。毎あさ彼はヂャリージでの宅診を急いで済ませてから、町へ往診に出かけるのだったが、その馬車ももう二頭立てではなく、じゃらじゃら小鈴のついた|三頭立て《トロイカ》で、いつも帰りは夜がふけた。彼はでっぷり肥って来て、おまけに喘息《ぜんそく》もちになったので、歩くのが億劫でならなかった。パンテレイモンもやはり
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