この薄のろ? さっさと出さんか!」
 スタールツェフはいったん家へ帰ったが、じきにまた引き返して来た。借り物の燕尾服《えんびふく》を一着に及び、どうした加減かやたらにばくついてカラーからはみ出そうとするこちこちの白ネクタイをくっつけて、彼は真夜中のクラブの客間に坐り込み、エカテリーナ・イヴァーノヴナを相手に夢中でこんなことをしゃべっていた。――
「いやはや、恋をしたことのない連中というものは、じつに物を知らんものですなあ! 僕は思うんですが、恋愛を忠実に描きえた人は未だかつてないですし、またこの優にやさしい、喜ばしい、悩ましくも切ない感情を描き出すなんて、まずまず出来ない相談でしょうねえ。だから一度でもこの感情を味わった人なら、それを言葉で伝えようなんて大それた真似はしないはずですよ。序文だとか描写だとか、そんなものが何になります? 余計な美辞麗句が何になります? 僕の恋は測り知れないほどに深いんです。……お願いです、後生ですから」と、とうとうスタールツェフは切り出した、「僕の妻になって下さい!」
「ドミートリイ・イオーヌィチ」とエカテリーナ・イヴァーノヴナはひどく真面目な顔をして、ちょっと考えてから言った。「ドミートリイ・イオーヌィチ、そう仰しゃって下さるのはあたし本当に有難いと思いますし、またあなたを御尊敬申し上げてもおりますわ。でも……」と彼女は立ちあがって、立ったまま後を続けた、「でも、堪忍して下さいましね、あなたの奥さんにはわたくしなれませんの。真面目にお話ししましょう。ねえドミートリイ・イオーヌィチ、あなたも御存じの通り、わたしは世の中で何よりも芸術を愛していますの。わたしは音楽を気ちがいのように愛して、いいえ崇拝していて、自分の一生をそれに捧げてしまいましたの。わたしは音楽家になりたいの、わたしは名声や成功や自由が欲しいんですの。それをあなたは、わたしにやっぱりこの町に住んで、このままずるずるとこの空虚で役にも立たない、もう私には我慢のできなくなっている生活を、続けろと仰しゃるんですわ。妻になるなんて――おおいやだ、まっぴらですわ! 人間というものは、高尚な輝かしい目的に向かって進んで行かなければならないのに、家庭生活はわたしを永久に縛りつけてしまうにきまってますわ。ドミートリイ・イオーヌィチ(と呼びかけて彼女はちらっと微笑《ほほえ》んだが、それは『ド
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