ういふ言葉を使はなければならない破目に陥つた。文学をやつたお蔭かどうか、凡そ、しかし、文学の無力を痛感させる言葉でないか。なぜなら、私の尊敬するわが国の現代作家は、公にまださういふ言葉を使つてゐないやうである。
 思ふに、そんなことを仮にも云はせない何かが、ほんたうの文学者の胸の中には燃えてゐるのであらう。残念ながら、私は、夜、床にはいつて、自分の仕事のことを考へながら、いつの間にか、ああ日本はこんなことでいいのだらうかと、つひ考へてしまふ。すると眼が冴えて寝つかれない。新聞の記事のひとつひとつが頭に浮んで、歯ぎしりをする。滑稽だと思ふが、どうにもしようがないのである。

 それでもまだ、文学の領域では、個人々々の力がある程度まで伸び上つてゐるが、芝居や映画の畑になると、さうは行かない。
 真面目な仕事がまつたく酬いられず、才能が自然な発達を阻まれ、いつまでたつても、近代芸術の名に値するやうな作品が現はれない。原因はどこにあるかと、みんなが、一生懸命に研究してゐる。なるほど、人物もゐない。金もない。が、真の原因は、それ以前に属してゐるのである。さういふものが生れる社会状態でないといふこ
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