雄弁について
岸田國士
雄弁が文学の一ジャンルとして今日どういふ取扱ひを受けてゐるかといふことを考へてみると、わが国では、先づ第一に、そんな文学のジャンルはこれまで認められてはゐなかつたやうである。
西洋では希臘以来、論議と演説の形で、雄弁が「文学的に」発達し、フランス十七世紀にはボッシュエのやうな雄弁文学の天才を生み、その「弔辞集」は古典の傑作として文学史家は必ずこれに若干の頁をさいてゐる。
元来西洋のエロカンスといふ言葉を雄弁と訳すのは正しいかどうか疑問である。しかし、これは習慣に従ふとして、近代西洋文学の一般的散文化にも拘はらず、私は、その伝統のなかに、各種目を通じて、雄弁の要素が多かれ少かれ含まれてゐることを注意しないわけにいかないのである。
アランなどに従へば、散文は雄弁やリリシズムと対立するものとして、その本質的な表現の性格が明瞭に区別されてゐるけれども、これは飽くまでも純粋な見方であつて、私の意見はこれと関係なく、西洋近代作家の手になつた散文が、高度な生活色を帯びた雄弁の魅力をひそませてゐることをまづ感じ、殊に、戯曲と書簡文学の文体的特質は直接雄弁の影響を除外し
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