雄弁について
岸田國士
雄弁が文学の一ジャンルとして今日どういふ取扱ひを受けてゐるかといふことを考へてみると、わが国では、先づ第一に、そんな文学のジャンルはこれまで認められてはゐなかつたやうである。
西洋では希臘以来、論議と演説の形で、雄弁が「文学的に」発達し、フランス十七世紀にはボッシュエのやうな雄弁文学の天才を生み、その「弔辞集」は古典の傑作として文学史家は必ずこれに若干の頁をさいてゐる。
元来西洋のエロカンスといふ言葉を雄弁と訳すのは正しいかどうか疑問である。しかし、これは習慣に従ふとして、近代西洋文学の一般的散文化にも拘はらず、私は、その伝統のなかに、各種目を通じて、雄弁の要素が多かれ少かれ含まれてゐることを注意しないわけにいかないのである。
アランなどに従へば、散文は雄弁やリリシズムと対立するものとして、その本質的な表現の性格が明瞭に区別されてゐるけれども、これは飽くまでも純粋な見方であつて、私の意見はこれと関係なく、西洋近代作家の手になつた散文が、高度な生活色を帯びた雄弁の魅力をひそませてゐることをまづ感じ、殊に、戯曲と書簡文学の文体的特質は直接雄弁の影響を除外して考へることは不可能ではないかとかねがね思つてゐる。
日本でも、さういふ意味に於ける雄弁の伝統は、古来、軍記物語の類から講釈落語または歌舞伎劇の脚本等のなかにみられはするが、それは著しく職業的なものとしての発達のしかたをした。云ひかへれば、雄弁が万人の生活のなかに浸潤しなかつた。日本人の個々の教養となるやうな社会的要求がなかつたからである。これは結局、日本に於けるデモクラシイの思想の歴史と密接な関係があるのである。
ところで、明治以後、政治運動と共に、新しい雄弁の世界が時代の面に浮び出たことは周知の通りであるけれども、この政治演説なるもののひとつの型は、凡そ、「文学」の感覚とも、哲学の思索とも縁遠い粗雑な興奮の上に出来あがつたものであつて、わづかに、優秀な基督教牧師の説教が西洋の雄弁の伝統を承けついだかの観があり、若干の文学者が、或は戯作者的な好みから、或は美文調なる一種のリリシズムに混へて、甚だ手軽な雄弁を振り廻したに過ぎぬ。
しかし、西洋文学の影響は、次第に、文体の変革をもたらした。小説では漱石、荷風など、評論では白村、阿部次郎などのなかに、早くも、西洋的雄弁の正統的な訓練が
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