那の梨はどうも……」
すると、彼女は、自分の隣りにゐる兵隊の鼻先へ黙つてそれを突きつけた。
兵隊は、ちよつと面喰つたやうに顔を引き、女の顔と私の顔とを見くらべ、更に、前後左右を振り返つて、にやにやと笑つた。
車中は、一つ時緊張したやうに見えた。わざと素知らぬ風を装ふものもあつた。それを機会に、欠伸をするものもあつた。誰もなんとも云はないのは、どうしたわけか?
しかたがなしに梨を受け取つた兵士は、それでも、うまさうに齧つた。一口齧つては、うふゝゝと笑つた。子供が二三人もゐさうな年輩である。
正定に着いた。
さつきから、夥しい支那兵の屍体が眼につく。最近に夜襲でもあつたか。とにかく、正定と云へば、保定にまさる激戦の跡である。話に聞くと、保定の占領は、全ジヤーナリズムがその筆力を集注したわりに、あつけない戦闘であつたのに反し、正定の方は、その後をうけて、ニユースが幾分省略された傾きがあるらしい。が、事実は、これこそ、河北進軍のクライマツクスとも云ふべき大決戦であつたとのことである。
軍事専門家がこれをどう扱ふか、そこまでのことは私にはわからぬ。ただ、作戦の規模と攻撃の難易を別に
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