だと思ひます。即ち、忘れること、反省すること、たゞこれだけです」
「先生の御意見は、甚だ東洋的で結構だと思ひます。私は、御国の知識階級が殆ど北京を去つてしまつたといふ話を聞いて、非常に悲しく思ひました。この状態は永く続くでせうか?」
「さあ、わたくしにはわかりません」
「先生はイタリイにもおいでになつたさうですね」
「父が公使をしてをりましたから……」
「ずつと北京においでになるおつもりですか」
「なんにもすることがなければ、田舎へ引つ込みます。私の眼の前は、いま、真つ暗です」
 相手を識らなければ、何を話してもまづいやうな気がして、私は遂に黙つた。銭氏の今までの仕事について、皆目知識がないことを私は悔んだ。なんでもダンテの「神曲」を訳してゐるといふことは知つてゐたが、話を六百年前に戻す法はないのである。
 O氏が、四方山の話をしてくれる。
 その間、私はぼんやり、部屋の隅々を見廻し、支那文人の住居らしい、それでゐて、どことなく欧羅巴に通ずる何ものかをひそませた生活様式に興味を覚えた。
 不躾な訪問を謝して外に出ると、細い露地は暗く霞んで、街の子らが車の周囲を取巻いてゐる。
 誰がなん
前へ 次へ
全148ページ中126ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング