泰来飯店《タラチフアンテン》では私の顔を覚えてゐて、マネエヂヤアもボーイも愛想よく迎へてくれた。
上海の外国租界では、かうは行かぬらしい。殊に香港では、うつかり日本人などは街を歩けないといふ話も聞いた。いや、そればかりではない。天津や北京でも、事変前の空気はまるで違つてゐたやうである。ある日本人が人力車に乗らうとして賃銀をかけあふと、普通なら十銭ぐらゐのところを五十銭出せといふ。で、それは高いと云つたら、そんならこつちが五十銭出すからお前車を挽いておれを乗せて行けと云つて、空嘯いたさうだ。
勿論、こんな話はざらにあつたらう。ところが、今では、それが信じられないくらゐである。日本人としては一応住みよくなつたと云ひ得る。が、それで安心はできないやうに思ふ。支那人の「時勢」に順応する力は恐ろしいものだといふことを知りさへすればいゝのである。彼等は、少しも変つてはゐないと、私は判断してゐる。保身の術を心得きつた民衆の、季節的な化粧を見るばかりである。
たゞ、日本人などに、それがどうかすると彼等を与し易しと感じさせる場合がありさうだ。忍ぶべからざるを忍ぶ、その程度が、あまりにわれわれとかけ
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