て行つてくれた。名刺はまる一日かゝるといふので、すぐに使ふ分を二三枚別にその場で書いて間に合せようと思つた。が、ふと、私は、その字を店員の支那人に書いてもらふのが面白いと気がつき、そばにゐる一人に、それを頼んだ。すると、その先生はにこにこしながら早速筆を取りあげた。余程うれしかつたとみえる。子供のやうな緊張ぶりである。出来上つた字は、流石に立派であつた。
その夜は、本場の羊料理、かの豪快な炙肉の立ち食ひを試みた。ヂンギスカンとは日本人の命名ださうだが、沙漠に開かれる軍旅の夜宴は連想としてまづくない。羊料理の店は給仕の少年までみな回々教徒だといふこともはじめて聞いた。
座談会
○○○○室のB氏が人選をしてくれ、北京を発つ前の晩、ホテルへ若干名の支那人を招待した。半ば特派員としての資格ではあつたが、半ば個人として北京在住の所謂「インテリ」に会つておきたかつたからである。多少でもはつきりした思想的立場をもつてゐる人はどうかと思はれたが、集つた顔ぶれは、左の通りである。
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柯政和(東京音楽学校卒業、北京地方維持会専門委員、華北教育総会総務組組長、北平師範大学教授、四十八歳)
関瑾良(日本明治大学法科卒業、北京警察局秘書、地方維持会公安組第一科長、三十五歳)
劉家驤(北平大学卒業、北京競報社々長、亜洲文化促進会副主任、中聞通訊社々長、二十八歳)
鮑澂夫(北平大学卒業、毎月評論社々長、亜洲文化促進会常務委員、二十七歳)
胡※[#「藩」の「番」に代えて「位」、第3水準1−91−13]棕(朝陽大学法科政治系卒業、反共戦線社々長、二十六歳)
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このほかに、文学者として、周作人氏にも出席してくれるやう、私は昼間わざわざ同氏を訪ねて、その了解を得ておいたところ、丁度、周氏が家を出かけた時刻に、勅使が着かれたといふので全市に戒厳令が敷かれたため、もうちよつとのところで通行禁止に遇ひ、たうとう、あと戻りをしなければならなかつたといふことを電話で知つた。
日本人側は、私と外務省文化事業部嘱託の橋川氏との二人。話がすんで晩餐の席には、O、N両氏にも出てもらつた。
関瑾良氏が日支両国語のそれぞれ翻訳をしてくれることになつてゐ、同氏は座談会のための速記者をちやんと連れて来てゐた。
さて、予め席を設けさせた別室で、私は挨拶を述べた。
「私はこの度、雑誌文芸春秋の特派員といふ資格でこゝへやつて来ました。しかし、私は元来、ジヤーナリズムのエキスパートではありませんし、さういふ角度から、この事変の現地報告をする能力も興味もないのです。
私はたゞ日本の一作家として、戦乱の地を訪れ、自分自身のためにも若干の新しい体験を、また、私の読者のためには、なるべく冷静に今度の事変の性質、及びその結果を考へてみる材料をもたらしたいといふのが、本来の希望であり、任務なのであります。
実は、十分の暇がなく、非常に短時日の旅行なのですが、ともかく、石家荘まで行つてみました。それからつい一両日前北京へ着いたところです。北京の街は、なるほど、見たところでは、不幸な戦禍を免れてゐるやうに思はれます。しかし、民心はどうでありませうか。旅行者たる私には、一種解し難い時局の謎もあります。そこで私は、この機会に是非、御国の知識人から、出来るだけ率直な御意見を聞かしていたゞけたらどんなに参考になるだらうといふ考へを起しました。しかも、それが必ずしも不可能でない最大の理由は、今度の事変が幸ひに国民と国民との争ひでないといふこと、お互にいくぶんは違つた意味をもつてはゐませうが、ともかくも、中国人と日本人とが、事こゝに至つても、なほかつ仇敵の間柄ではないといふことを、両国の政府がはつきり声明し、国民も亦それぞれ、その点を深く認識してゐることであります。この認識は、外交の掛引からは遠いものであると私は信じたい。少くとも、さういふ信念をもつて、両国民の不幸を見つめ、その前途を憂へてゐる日本人、殊に、知識層の大部に、私は少数の方々でもいゝ真に同志と呼ばるべき御国の知識人の声を聞かせてやりたいのであります。
今日こゝにお集り下さつた方々は、その経歴、地位、また、現在の出処進退に於て、われわれが躊躇なく、味方と呼び得る方々であらうと信じますが、私自身、日本人として当然の国民的義務を負うてゐますと同様に、皆さんも、中華民国人として、言論行動の上の制約を顧慮せられなければなりますまい。これは申すまでもないことで、私がたゞ、皆さんから伺ひたいと思ふのは、専ら、文化的な部門についてであります。例へば日中両国民の提携による平和百年の事業が、果してどんな基礎の上に築かれなければならぬかといふやうな問題について、皆さんの抱負なり、予想なり
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