然たる婆さんが、横から熱心にのぞき込んでゐた。
 この婆さんは少しフランス語を話すらしいので、合ひ間あひ間に、事変問答をしてやらうかと思ひ立つたが、どうしても気がひけて切り出せない。
「あなたは天津へお帰りですか?」
「さうです」
「天津には長くお住ひですか、もう?」
「十五年」
「……」
 支那は住み心地がいゝですか、と訊かうとして、つまらなくなつてよした。
「あなたおやりなさい」
 私が席を起つと、その婆さんは、大急ぎで盤に向つた。
 見覚えたにしてはこの婆さん、なかなか頭がよく、寧ろ意地の悪い手の連発で、易々と彼女の一番若い、そして、一番美しい同僚をひねつた。
「おゝ」
 と叫んで、負けた方は、私の顔を見た。気の毒だが、どうしやうもない。

     最初に会つた同期生

 門司でも幾人かの将校が乗り込んだ。
「おい、岸田ぢやないか」
 アレキサンダアに似た工兵中佐が私の肩を叩いた。
「忘れたか。Sだよ」
「あゝ、さうか」
「何処へ行くんだい」
「うむ、従軍記者だ。よろしく頼む」
「ほう……それはそれは……。貴様の書くものはうちの嬶が読んどるぞ」
 もう一人の騎兵中佐が、その時、私の方へ歩み寄り、
「しばらく……。私、Yであります。幼年学校でお世話になりました」
 さう云へば、私が三年の時、このYは一年生ででもあつたのだらう。
「今度は隊長ですか。今迄は?」
「騎兵学校にをりました。さつきから、どうもさうぢやないかと思つて……やつぱり変つてをられませんな」
 上陸の前夜、食堂で、何時の間にか将校たちの酒宴が開かれてゐた。
 外国武官連も、その時はじめて彼等の仲間入りをした。
 さながら聯隊の将校集会所であつた。
 ボーイは当番の如く右往左往した。
 米国中佐は流暢な日本語で、
「××参謀長閣下には以前大へん御厄介になりました。お酒ですか? いや、私はあんまり頂けませんです」
 Yが高らかに詩吟をやりだした。
 英国中尉に木曾節を歌へと責めてゐるのはSだ。たうとう自分でやり出した。
 と、だしぬけに、Yはポーランドに握手を求めながら、
「君の国はなかなかよろしい。日本の味方だらう」
 と、それを私に通訳しろである。
 私はペルウとポーランドを彼は間違へてゐはせぬかと思つたが、そんなことはまあいい。英米の方へ五分の注意を払ひながら、その意味を伝へてやつた。
 ポーランドは、「メルシイ、メルシイ」と云つてYの手を握つた。
 さつきから、この壮快な雰囲気のなかで、酒を飲まずに始終微笑をふくんでゐた日本の一大佐は、傍らの米国に向つて訊ねた。
「どうです、日本の将校は元気でせう」
 すると、米国は、なんでも呑み込んでゐるといふ風に、
「いや米国でもおなじです。戦地に向ふ前の米国将校と来たら、こんなことぢやすみません」
 大佐は、そこで、鷹揚に、天井を仰いで呵呵大笑した。
 私は、Sから盃を受けながら問うた。
「君は、どの方面へ行くの?」
「わからん○○○へ行けと云ふ命令を受けたゞけで、その先は聞いてない」
「新しい部下を渡されるわけだね」
「うん、一日一緒にゐれば新しいも古いもないさ。そこが軍隊の有りがたいところだ。なあ、さうだらう」
「さうだ」
 と、私は、彼の眼をぢつと見つめた。――いゝ隊長だな、と感じた。

     親日家

 船が朝鮮沖にさしかゝつた時、私宛の無線が配達された。
「ブジゴコウカイヲイノルマスヲ」
 大連にゐる弟からである。どうして私の旅行を知つたか? もう十五年も会はずにゐる彼のことを思ふと、帰りに寄れたら寄つてみたい。
 その他、船でわりに話をし合つたのは支那人のFである。
 この人は上海の商人だといふことだが、日本語も相当でき、言葉のはしばしで、所謂、事変後の工作に乗り出さうとしてゐる有力な親日家だといふことが察せられた。
 こんなことを何処まで書いていゝか、むろん大事なことは本人が漏らしはすまいと思ふから、こつちは遠慮なく聞いたまゝを書く。
 彼は云ふ。
「日本の支那通で支那のことわかつてゐるものごく少い。支那にいろんな支那ある。支那人にいろんな支那人ある。いつしよにする、よくない」
 私は聴いてゐる。が、時々こんな質問をしてみる。
「あなたは支那人として、今度の日本の行動を全然間違つてゐないと思ふ側の人ですか?」
「さう、間違つてゐない。少し遅いくらゐです。もう二年たつたら、駄目、効き目ない」
「なぜ?」
「支那強くなつて、負かすのむづかしい」
「待つて下さい。それぢや、あなたは、日本の行動を是認するばかりでなく、支那が負けることを望んでゐるんですね」
「蒋さん、負けるのかまはない。国民党ある間支那幸福になりません」
「でも、たつた今、あなたは、もう二年たつと支那は強くなりすぎると云ひましたね」

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