軍隊だけです。人民は苦しい」
 Fは、しかし、もとは軍人ださうである。しまひに、日本の士官学校出身だといふことまで告白した。
「北支那はどうです? 大学なんか復活するでせうか?」
「大学はいりません。共産党の学生をつくつてもなんにもならない」
 話は簡単だ。
 太沽で、風のために一昼夜上陸が遅れ、しびれを切らしたわれわれは、ランチの姿をみつけると、思はず躍り上つた。
 ○○艦が一隻、沖を走つてゐる。

     ○○部隊長

 ランチは、白河を溯つて、塘沽に向つた。粘土色の水が陸との界を曖昧にしてゐる。
 白河といふ名前の由来をFが話して聴かせた。
「一般には、この河が九十九曲り曲つてゐるので、百から一を引いた、即ち白河と名がついたやうに云はれてゐるが、実は、それはこじつけで、冬になると一面に凍つて白くなるところからさういふ名が出たのだ」
 それはどつちでもいゝが、このへんに来て驚くことは、水上陸上ともに、英国旗のあちこちに翻つてゐることである。
 塘沽では、S中佐その他と共に同地の○○部隊本部を訪れた。部隊長がHといふ、これも同期生だといふことがわかつたからである。
「よう、やつて来たか」
 と、H中佐は、起ち上つた。
「うむ、さうか。恰好はなかなか勇しいのう」
 Sの説明を聞いて、彼は、私の背広の腰に水筒と図嚢をぶらさげた異様な姿を見上げ見下した。
「後方勤務はおれの柄ぢやないわい。しかし、大いにやつとるぞ。此処の王様ぢやからのう」
 そこへ副官がはひつて来て、街路拡張の問題について住民代表が全部集つてゐると報告した。
「よし、いま行く。おい、昼飯を御馳走しよう。兵隊の麦飯もたまによからう」
 ○○は兵糧の元締だから物資豊かで贅沢に事欠かぬやう俗に考へられてゐるが、その○○の親玉の御馳走はとみると、これはまた思ひきつて質素な、そして手荒な兵隊料理であつた。しかし、私は、船の食事に飽きてゐたせゐもあり、甚だ食慾を覚えた。
「おれは兵隊と同じものを食つとるんだが、第一線のことを思へばね」
 Hは、なんの衒ひ気もなく、さう云つて箸を取りあげた。
 その後、前線を親しく見廻つて、私は痛切に感じたことだが、戦闘部隊は時としてまつたく給養の道を絶たれ、やむを得ず大根や生薯をかじつて饑を凌いでゐるのである。しかし、後方勤務の部隊は、殊に将校であれば少しの我儘は許されさうである。それをHの如く、断じて易きに狎れない覚悟をもちつゞけるといふことは、なかなか凡夫にはできがたい業だと今更敬服してゐる次第だ。
「つい二三日前、敵の飛行機がこの上へ飛んで来てのう」
 と、Hは愉快さうに語る。
「ほれ、あそこに造船所があつたらう。あの附近へドカン/\と落して行きやがつたよ。やられたのは支那人ばかりさ。馬鹿野郎だ」
「こつちに防備はないのか?」
 私はうつかり訊ねた。
「う? うむ……ないことはない。○○砲が○門ある。当りやせんよ」
「逃げ脚が早いでのう」
 と、まだ敵の飛行機を見たこともないSが応援した。
 妙なもので、将校たちが、例へば、○○砲は当らんといふのを聞くと、素人はなるほどそんなものかと思ふかも知れぬが、それは彼等の言葉癖を解せぬからである。あからさまに云へば、彼等は、自分の属してゐる兵科の自慢は大つぴらにやる代り、他兵科をわざとこきおろす無邪気な習慣がある。決して、近代武器の威力を軽しとするわけではない。逆の例を云へば、某飛行将校は、今度の実戦の経験を私に語り、飛行機の強敵は有力な敵機に非ず、砲兵に非ず、機関銃に非ず、寧ろ散開せる歩兵の小銃射撃なりと断言した。味ふべき説である。
 さて話が混線したが、われわれは腹がいつぱいになつたところで、Hに暇を告げた。
「コレラなんかにやられるな」
 私が戯談をいふと、
「うむ、貴様も流れ弾に用心しろ」
 送つて出ながら、彼は、Sに囁いた。
「こゝにをると前線に出る同期生がみんな訪ねて来るよ。おれは云つてやるんだ。――貴様早くくたばれ。さうせんとおれに隊長の番が廻つて来んつて……」

     天津まで

 塘沽の停車場は雑沓を極めてゐた。
 そこで私は、最初に支那民衆の表情を読み取らうとしたが、なんのことはない、みんなのんびりとしてゐて、こつちだけが緊張してゐるのに気がついたくらゐである。一人一人についてはどうとも云へぬが、かうして群衆としての彼等を観察すると、そこには戦争などといふものか如何なる形でも映つてはゐないやうに思はれた。寧ろ、この雑沓の印象は、彼等の間を縦横に掻き分ける様々な日本人の姿が目を惹くせゐであることもわかつて来た。
 藍鼠の水兵服に真つ赤な袖章をつけた伊太利の守備兵が五六名、なんの屈託もなささうにプラツトフオームを往つたり来たりするのが、たゞ一つの明るい色彩である。
 明るい
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