、次に紹介する「珠痕記」といふ芝居のなかで、春登の妻に扮し、遺憾なくその才色を示したやうに思つた。
 支那芝居の面白さは、N氏ぐらゐにならないと、外国人には隅々までわからぬことは当然と思はれるが、とにかく、かういふ種類の芝居を今もつて無上のものと心得てゐるところ、支那の好みが窺はれて、それだけでも大いに参考になつた。
 試みに、多分N氏の筆になるものらしい当夜の番附にのつてゐる上記「珠痕記」の筋書を写してみる。

 人物
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朱春登       老生 譚富英
趙景棠(春登の妻) 青衣 程硯秋
中軍(春登の部下) 浄  侯喜瑞
朱春登の母     老旦 文亮臣
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 山東の人朱春登は叔父に代つて出征し、老母と妻君を家に置いて、十数年帰つて来ない。其間に叔父は物故し、従弟の春料は科挙の為め京都に流寓する。それで春登の叔母宋氏は家政を壟断し、春登からの音信を没収して、趙氏には春登が既に戦死したと偽り、自分の甥宋成と再婚するやうに迫る。趙氏が肯じないので姑と一緒に追出される。二人は初め羊を飼つて糊口してゐたが、終にそれも出来なくなつて乞食になる。
 一方春登は戦功を建て、平西侯に封ぜられ、春料も官を得て、兄弟揃つて故郷に錦を飾る。宋氏は春登に、彼の母も妻も既に死んだといふ。断腸の思ひで春登は母の霊前に痛哭する。此処の唱は中々聴ける所である。至親を失つた春登は失望落胆、出仕の意なく、隠遁せんと決心する。その前に故人の冥福の為に我家の墓前で蓆棚を設け七日間の施食をやる。其時既に遠地に流離してゐる趙景棠とその姑は、神力に助けられ、蓆棚の前へ来て、何も知らずに乞食する。食べてゐる中に、墓前にある槐の木を見て我が家の祖墓なるを知り、吃驚して碗を落す。その為に中軍に酷く叱られるが、中軍は貧民をいぢめたかど[#「かど」に傍点]で却て春登に罰せられる。さて春登が件の乞食を呼んで事情を聞いてみると、どうも自分の妻君らしい。終に我が妻の左手に赤いあざのあつた事を思出し、乞食の手を見せて貰ふ。間違ひない。それで愈々名乗つて母親にも邂逅する。珠痕記なる名前を得た所以である。この夫妻相認の場が此芝居の絶頂で、譚富英と程硯秋とのコンビは得難い絶唱である。
 再び母と妻を得た春登は叔母を呼んで問ひ糾すが、中々泥を吐かない。おまけに、「自分に若しそんな事があつたら竜にさらはれてもよい」と天に誓ふ程の図太さであつたが、誓ひの言葉が未だ終らない中に、本当に竜にさらはれて行く。

 筋は他愛のないものだが、歌を聴くのが主だと云はれてみれば、それまでの話である。しかし、歌を唱ひながら、それぞれの役柄に応じて、型の如き身振りをするのだが、その身振りは、身分、年齢、性格、殊に、青年男女の性的魅力を、極めて端的に、しかも微妙に現はすこと、わが歌舞伎劇の手法に酷似し、更に私の観察では、若い女の媚態を形づくる線の動きは、不思議に日本の伝統的な女性美の標準と一致するものがある。云ひ換へれば、西洋の如何なる芝居に出て来る女も、コケツトな表情の百姿百態を通じて、まつたくこれと共通したものをもつてはゐないことを注意すべきである。
 それともうひとつは、役者の見得の切り方であるが、あの瞬間の動きと「きまり方」の呼吸は、これまた、日本の歌舞伎と支那劇との性格を近づけてゐる。
 この発見は、恐らく、私を途方もない仮定に導くやうに思はれる。といふことは、わが歌舞伎劇なるものが、案外、今日まで信じられてゐるのとは反対に、直接支那劇の影響を受けてはゐないかといふことである。
 さもなければ、両国民の伝統的な生活感情は、種々相距る外貌をもつに拘はらず、少くとも、異性理想化の一点で、隣国に応はしい接近を示してゐると云はなければならぬ。
 まあ、この議論は将来N氏にお委せするとして、私の支那芝居見物記はこのへんで切り上げることにしよう。

     女学生の作文

 忘れようと思つても忘れられません。私達はいつ迄も七月二十七八日の爆声を記憶するでせう。
 あの日私の父は私達に言ひました。
「我々は明日は天津に避難しよう」
しかし私達は父に反対して言ひました。
「あたしは行かない。同《とも》に国難に赴くのよ」
 私達だつてやはり死にたくはありません。しかし避難[#「避難」に傍点]、この二字はどうも聞き苦しい。
 数日たつて新聞に天津の戦禍が報ぜられてゐた。
「※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]呀《ヤレヤレ》、天津に避難して行つた人はみんな死んぢやつたよ」
 と、父はこの一語を云つてニツと笑ひました。
          ×          ×
 私の家には姪が沢山にゐます。私よりたつた一つ年下の姪は或日旗行列に参加しました。彼女は一日中街を歩き廻つたので迚も疲
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