私は三階のひと部屋をとつた。
 このホテルは日本婦人を細君にしてゐるフランス人が経営してゐるのだといふ話を聞いてゐた。そこで、はしなくも、私は近代支那の一享楽主義者が発した言葉といふのを思ひだした。曰く、「この世の幸福は、洋式の部屋に住み、日本の女を妻とし、支那料理を食ふことに尽きる」と。
 ボーイがぞろりとした支那服で、怪しげなフランス語を使ふのをみてゐると、こつちは馬鹿に気が楽になる。嘗ての放浪癖が頭をもたげて、早くも、私は、「故郷を失つた人間」の気持にひたる。

     慈善興行

 日本を発つ時、阿部知二君から、北京へ寄るのだつたら是非この人に会へと、わざわざ紹介の名刺を貰つて来てゐるので、ともかくそのS・O氏と連絡をとることにした。何時何処でお目にかゝれるかと手紙にしてメツセンヂヤア・ボーイを走らせたのである。すると、間もなく、こつちから出向くといふ丁寧な返事に、私は大いに恐縮した。
 O氏は、支那文学を専攻する慶応の若い教授で、なんの予備知識もない私に、「これが北京だ」と教へて誤らざる人だと阿部君はにらんだのであらう。
 事実はその通りで、私の勝手気儘な註文にも拘らず、実用と趣味の両方面から、極めて豊富かつ適切なプログラムを作つてくれた。
 私は先づ、滞在日数の極めて少いこと、「事変」に関係ある範囲で会ひたいと思ふこれこれの人々があること、名所旧跡はこの際強ひて見たいと思はぬこと、それよりも「北京の現代相」といふやうなものについてひと通りの概念を得たいこと、序があつたら古物商を一二軒のぞいてみたいこと、等を述べたのである。
 北京へ来て名所旧跡を二の次ぎと考へる私の料簡を、氏は多少遺憾に思つたらしい。私もまた、それは好意ある案内者への礼でないことをぢゆうぢゆう知つてはゐるが、今度の旅行の目的を忘れてはならないのと、もうひとつは、従来の経験に徴すれば、私は、所謂名所旧跡といふものに接して、真に心を豊かにした記憶がないのである。
 それはさうと、O氏は、同伴の支那劇研究者H・N氏を私に紹介し、その晩、丁度いゝ芝居がかゝつてゐるから、一緒に観に行かうと云ふ。そして、晩飯は、両氏の宿で家庭料理を御馳走しようといふ、結構すぎる提議に、私は快く応じた。
 さて、その芝居であるが、当夜は、北京市政府社会局主催の義務戯(慈善興行)の第二夜で、しかも、二日しかやらぬその興行は、年に一度のオール・スタア・キヤストだとのこと、北京の名優をかうして並べてみられるのは運のいいことだと云へば云へる。
 元来、私は支那芝居といふものを、専門的な立場からもあまり重要視してゐないし、嘗て上海で観た相当いゝ芝居といふのも、その時の印象では、ちつとも面白くなかつたのである。勿論、研究をした上での批判ではないから、大きなことは云へないけれど、形式から云へばまづ歌劇の部類にいれるべきであつて、「演劇そのもの」としての価値は低いものと断言して憚らなかつた。殊に、歌詞がまるで解らないと来ては、音曲としての縁遠さは別にしても、われわれの興味を惹く何ものもないと高を括つてゐた次第だ。
 ところが、N氏の説明をきゝ、台本のあらましを読み、俳優の閲歴、芸格など、大急ぎではあるが大体呑み込んだ上で、いざ、舞台を眺めてゐると、こいつは馬鹿にならんぞといふ気がして来た。
 観客席は超満員である。しかも入場料は、平生とくらべものにならないほど高いのである。支那人、殊に、北京人の芝居好きは底知れずと云はれるだけあつて、国家の安危を打ち忘れての陶酔ぶりである。
 贔屓役者が出て来たり、いはゆる「見せ場」「聴きどころ」といふやうなところへ来ると、あちこちで、「好々《ホーホー》」と声がかゝる。
 椅子席の前に、狭い板が渡してあつて、それが卓子の代りになる。売子が茶を持つて来る。菓子や果物を置いて行く。いらぬと云つてもなかなか承知しない。
 舞台では、三国志の一節が物語られてゐる。「撃鼓四馬曹又は群臣宴」といふ外題である。女優が髭の生えた男の役をやつてゐる。
 舞台裏から平気でこつちをのぞき込んでゐるものがある。それどころではない。舞台の隅へはみ出して来る奴がゐる。道具を出したり引つ込めたりする男が、早く云へば小道具方が、まるで自分の家を片づけるやうな歩きつきで、役者の間をうろつき廻る。
 ひと節歌ひ終ると、役者は後ろ向きになつて差出された湯呑みの湯を一杯飲む。口髭のあるのは、その口髭を頤の下へ外すのが見える。女の役は、それでも、袖屏風をつくる。
 支那芝居の講釈は怪しいからやめる。名優と云はれてゐる二三人は、なるほど、役者としての魅力で私を惹きつけた。程硯秋といふ女形は、N氏に従へば、「現在北京で聴かれる名旦中での第一人者、その名海外に知られてゐることは梅蘭芳に次ぐ」とのことだが
前へ 次へ
全37ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング