たい錯覚に陥つた。
 アメリカ国旗を立てた大型のバスが、処もあらうに、プラツトフオームの上を悠々と走つてゐるのである。

     巡査の棍棒

 私がのぞいてゐる列車の窓口へ、GRAND HOTEL DE PEKIN と金文字で書いた帽子をかぶつた男が首を出したので、私はこれに黙つて荷物を渡した。
 駅の出口には人力車が殺到して身動きができないやうな有様であつたが、私はやうやくホテルのバスが待つてゐるのを見つけ、その方へ歩いて行つた。
 バスが出るまで私はしばらく駅前の光景を眺めてゐた。
 一人の巡査が棍棒を持つて群がる人力車を追ひ払つてゐるが、前を追ひ払ふと、後から、右を制すると、左からといふ風に、人力車は死にもの狂ひで客を目がけて突進して来る。巡査は、それらの車をいちいち押し返す。押し返されても、隙をみてまた走り出る。巡査は、いよいよ棍棒を振りあげる。相手はひるまない。すると、巡査は、躍起になり、声をからして、地団太を踏む。しかし、振りあげた棍棒は、決して人間の上へは打ちおろされない。幌とか梶棒とかを申訳のやうに叩く。車夫たちは、だから、痛くも痒くもない。遮二無二、割り込まうとする。巡査は、最後の手段として、車の上のクツシヨンを後ろへ放り出す。流石にこれは困るとみえ、車は一旦後ずさりをする。一度に幾十台といふ車が駈け寄つて来ると、一人の巡査では喰ひ止めやうがない。なかには、素早く客を拾つて走り出すものがある。巡査は恨めしさうにそれを見送る。
 いつたい、どういふ規則になつてゐるのか知らぬが、かうまで巡査の威令が行はれないといふのは、抑も事変の影響であらうか。
 それにしても、相手は人民、こつちは、役人である。職権をもつて、取締りができぬわけはなささうに思はれる。「断乎たる」処置をなぜ取らないであらう。
 焦《じ》れつたい話である。が、事実は、この通りで、巡査は堪忍袋の緒を切らず、車夫どもは反抗の限度を守つてゐるのである。
 従つて、最初はすさまじいものだと思つてゐたのが、だんだん、なんでもないことになり、いつたい構内人力車取締規則といふやうなものがあれば、それをちよつと聞きたいものだと、私はひとりでに微笑が浮んで来た。
 誠に支那といふ国は妙な国である。かねて規則ぎらひとは聞いてゐたが、かうまで世話がやけるなら、もうちつと方法がありさうなものである。私が云ふのは可笑しいが、ちやんと駐車場でもこしらへて順番に車を呼び出すやうにすればなんでもないぢやないか。お巡りさんも、自分でそれぐらゐの智恵をしぼりさうなものである。ところが、そんなことは考へもせず、さうかと云つて、不埓な人民に棍棒の一撃を喰はすでもなく、たゞ、その時々に、効果の少い同じ骨折りを繰り返してゐるのは、悠長千万な話である。しかし、見やうによつて、これこそ馬鹿にならぬ風習だと、私はつくづく感じ入つた。なぜなら、人力車夫の取締は罰則を設けさへすれば容易にできるが、巡査が、彼等の無秩序を「殴つて」まで懲らしめようとしない、その平和主義は、一朝一夕の訓練で得られるものとは思はれないからである。
 もちろん、その反面には、万一、巡査が暴力を振つたとしたら、あとの祟りが怖ろしいといふやうな事情があるかも知れぬ。それはつまり警察力の微弱を語るものであらう。
 問題は、だから、そんなところにあるのではなく、かゝる無秩序そのものが、支那人の神経をさほど焦らだたせないのだと見る方が当つてゐるかも知れぬ。それゆゑ、どうかしたらよささうなものだと思ふのは、実は、こつちが見るに見かねてさう思ふのであつて、支那の巡査は、なに、これぐらゐのことはなんでもないと、案外、芝居をするやうなつもりで、ひと通りの役目を果してゐるのだとしたら、更に、支那といふ国は、恐ろしい国だと云はねばなるまい。
 バスには私のほか、四五人の日本人が乗り込んだ。こつちも別に口を利かうとは思はず、向ふも、私の存在に注意を払ふ様子はない。同じ外国の旅でも日本が近すぎ、日本人を見あきてゐるせゐであらう。
 古色蒼然たる大型バスを、でつぷりと肥つた運転手が、急がず慌てず操縦する。乗心地はさうわるくない。
 厚い壁の上に葉の細かな並樹がしつとりと枝を垂れ、街は人通りがすくなく、乾いた路面が煙つたやうに長く続いてゐる。朱塗りの門をはひると、公園のやうな広場へ出るが、そこはもう、北京ホテルの前庭である。
 堂々たる四階建の洋館が、なんと、がさつに見えることか。正面の廻転扉を押すと、中は国際色に満ちた大ホールである。西洋人の幾組かが茶を飲んでゐる。日本の将校が二人、中央の階段を駈け上る。帳場では、英仏日支の国語がちやんぽんに使はれてゐる。両替をするところがある。欧洲語書籍の売店がある。土産物の陳列棚と、その番をしてゐる支那娘がある。

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