れてゐた。
「お前達はどこへ行つたの」
私がかうたづねたけれども彼女は答へなかつた。室の中が一種の淋しい空気で一杯になつた。私は二度と訊かなかつた。
暫くすると彼女は自分から旗行列の感想を話しだした。
「今朝私達は学校に行つた。しかし何のためだか知らずに行つた。先生が来いと云つたから私達は行つた。
校長先生は一言もものを言はない。たゞ沈黙のうちに私達に旗を渡した。私達学生も旗を受取つて一言もきかうとしなかつた。旗の上には『○○○○○』と書いてあつた」
校長も説かず、生徒も問はず、各人が暗黙の裡に旗行列に行つたのださうだ。
私はこの姪の言葉を開いて心中非常に痛快であつた。
「叔母さん、あんたの学校は何故行かなかつたの」
彼女が私にかう訊いた。
「私の学校は行かなかつた。去年お前達の学校が排日のデモンストレーシヨンの時にも私達の学校は行かなかつた。去年お前達は大きな声で旗を振上げながら『みんな起ち上れ(大家起来)』の一句を叫んだではないか。しかし私達の学校は参加しなかつた。それだから今日もやつぱり参加しなかつたのだ」
「叔母さんの学校はいゝわね」
「去年お前達はどう云つた、私はおぼえてゐるよ、あなたの学校は不好《ブーハウ》と云つたでせう」
「……」
「お前達は知つてるの、お前達の排日デモンストレーシヨンが今の戦争を惹き起したんだつてことを」
姪は首を垂れて何も云はなかつた。しかし心中甚だ不安の様だつた。
× ×
うちの兄がラヂオを一つ買ひました。米国のフイルコ会社の製品ださうだ。一寸ヒネつて燈をつけると、世界各国の音楽が聴けるさうだ。そのラヂオは大変高い。兄は三百円つかつたさうだ。
兄はなぜこのラヂオを買つたかといへば、英米の放送局の音楽をきゝたいからではない。私は夙《とう》から知つてゐる。彼は南京の放送局からニユースを聴かうとしてゐるのだ。
「駄目だ、聞えない」
或晩、かう叫んで彼は癇癪を起した。
「誰かゞチーチーペンペンとラヂオの放送を邪魔してやがる。一言も聞えやしない」
兄はそれからスヰツチをヒネつてもみない。ラヂオは床の上に淋しく立つてゐる。その函の上には埃が一杯たまつてゐる。
私はこのラヂオを見て、
――国家の地歩はどこ迄落ちゆくのであらう(国家地歩落到那辺)――
と、独り問ひ独り嘆じて心中不安に堪へないものがあつた。
これは、北京の崇貞学園といふ邦人経営の女学校を訪ねた時、校主の清水安三氏が私に訳しながら読んで聞かせてくれた一生徒の作文である。「時局感想の断片」といふ題がついてゐる。
清水氏の事業と、事変勃発当時のその行動を、私は氏の発表した文章で知つてゐたから、北京に着く早々、同学園を参観かたがた、氏の話を聴かうと思つて、朝陽門外の東堂子胡同といふところへ出掛けて行つた。
附近は場末らしいごみごみしたところであるが、学園は二階建の瀟洒な洋館と、これに続くバラツク二棟がわりに広い敷地のなかに建てられてゐる。
全級を六級に分け、小学から中等科程度の教育を施すやうになつてをり、生徒は悉く支那少女ばかりで、先生も私の見かけたところでは、若い支那婦人のみのやうであつた。
清水氏は基督教の牧師であり、支那の貧民の子女を、彼地ではまつたく望んでも得られない文化的恩恵に浴せしめようといふ発意から、この学校の経営を始めたのださうである。十数年の闘ひの後に、遂に、こゝまで漕ぎつけたのだと、氏は述懐しながら、綺麗に磨かれた校舎のなかを案内してくれた。
「事変後、生徒の数は変りはありませんか。多少減つたでせうね」
私の問ひに、清水氏は、得意らしい微笑を浮べ、
「ところが、ちつとも減りません。なるほど、例の通州事変の後、一時、この界隈に匪賊化した敗残兵が出没して、夜道はむろん危険ですし、何処の家でも戸を閉めて子供を外に出さないことがありました。それが一週間も続きましたかな。この間、生徒がぐつと減りました。が、それも、だんだん落ちつくに従つて、もともと通りになりました」
「すると、生徒の父兄は、この学校を信じきつてゐるわけですね」
「事変前の空気にくらべて、今は却つてよくなつてゐるくらゐでせう。私の仕事も、ですから、ずつと楽になると思ふんですが、或る意味では、かういふ特殊な事情を背景に、自分の仕事を発展させる野心など私にはないのです。寧ろ、これからは、もつと奥へはひつて行つて、未墾の土地へ根をおろさうかと思つてゐるくらゐです」
「こゝで女学校程度の教育を受けたものは、どういふ将来が約束されるのですか」
「なにしろ、殆ど家庭的には恵まれない女の子たちばかりですから、大がいは、職業につきます。希望者は日本へ送つて高等の教育を受けさせるやうにしてゐます」
「今、読んでいたゞ
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