告げ、K副官に謝意を表し、H部隊長の健康を遥かに祈りつゝ、司令部の門を出た。
さて、これからの行動は?
承徳の攻撃がまだ始まらぬとすれば、寧ろ井※[#「こざとへん+徑のつくり、第3水準1−93−59]まで進出して、娘子関の嶮を一目見ておくのもよからう。が、交通の便はどうなつてゐるか? それを確めておけばよかつた。
○○部隊にくつついて邯鄲あたりまで行つてみるのもまたひとつの方法である。しかし、これは往復一週間をみておかねばならぬ。予定通りにいつても、それでは北京に寄る暇がなくなる。こゝまで出掛けて来て北京を素通りといふのはちと話にならぬ。
なんとかして大砲の音ぐらゐ聞けないものか。
ふとこの時頭に浮んだのは、○○機で戦線の上を飛ぶことができたらといふことであつた。
それには、○○部隊長がこの辺にゐる筈だ。是非会つて相談してみよう。従軍記者の資格は多分ものを言ふであらう。同期生の誼みで更に無理が利きはすまいかと、私はひとりぎめにきめてしまつた。
志士の群
石家荘の大通りを――大通りと云つても道幅は三間あるかないかだが――北へちよつとはひると、右側に「靖郷隊本部」といふ札がかゝつてゐる。相当の構へをした支那風の住宅であるが、門をはひると、保安隊の巡警が歩哨に立つてゐる。
例によつて屋敷は幾棟にも分れ、食堂にあてられた一室に私は案内された。
卓子を囲んで、七八人の日本人が、賑かに食事をしてゐた。
堀内氏は何処かへ出掛けてまだ帰つて来ない。
一座の人々に紹介される。隊員のほかに、本願寺の従軍僧A氏、軍の通訳官I氏、同盟通信記者M氏、自ら「浪人」と称するW氏などである。
さう云へば、堀内氏も自分のことを「われわれ浪人もん」と云つてゐる。誰が作りだした言葉か、昔から聞く言葉であるが、これを私は、「支那に志を有する人々」の意に解しておく。
恐らく何に譬へやうもない、これら愛国的ヴァガボンドの平生について、私は些かも知るところはないが、彼等が日本を狭しとする理由は、その言動に徹して十分察せられるやうに思ふ。
政治的或は文化的領域に於ける伝統的なその役割について、私はいまこれを取りあげて論じるつもりはない。
たゞ、飽くまでも、時代の風貌をもつて、与へられた部署に活躍する性格的興味が、私をとらへて放さないばかりである。
試みに隊員の一人M氏
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