の写真を贈つてくれた。上演許可後、何の音沙汰もなく、作者をして不安な日を過ごさせる多くの劇場当事者の中に、このやうな行き届いた人のあるのは嬉しい。
 所用あつて近々京阪地方に赴く予定であるが、是非宝塚を訪れて、一夕を国民座の見物席で過ごさうと思つてゐる。
 大劇場の舞台に適しない私の戯曲が、これまで二三度、計らずも大劇場で脚光を浴び、その度毎に私は自分の仕事の前途を思つて心細さを感じたが、今度も同じ経験を繰返すことだらう。
 私は決して小劇場主義者でもなければ、小劇場向の戯曲のみを書かうと心掛けてゐるわけでもない。たゞ、これも作家の素質如何に関係するもので、どう考へて見ても、数千の見物を前に私自身としては、何を語つていゝかわからない。
 それが私一人ならいゝ。現在の劇作家――少くとも私たちと同時代の作家の多くは、これと同じ疑問にぶつかつてゐはしまいか。
 新劇協会なども、これから、もつと多勢の見物を喜ばせるやうな舞台を仕組まなければならない時機に達してゐながら、その舞台にかけ得られさうな新戯曲が、何時現れて来るか、今の処、ちよつと見当がつきかねる。困つたことだ。
 来月十五日から、既に帝劇の舞台を借りて臨時公演を行ふ予定すらあるのである。
 その出し物についても、一同は協議に協議を重ねたが、これといふ目星しい案も浮かばない始末である。興行政策からいへば一幕物を三つ並べるより、三幕物を一つ出す方がいゝらしい。一幕物といへど大抵は小劇場向きである。私などは近頃、一つ二つ、やゝ長いもの――といつても百枚足らずの中篇である――を書きはしたが、何れも、一幕物の引きのばしといつた程度のものに過ぎない。雑誌に発表する便宜などの関係もあるが、もつとどつしりした作品――形式からいつても大劇場向きの(必ずしも通俗的であることを要しない)作品が現れて来ることが、新劇の将来のためにも望ましいことである。
 新劇協会は、今、さういふ戯曲を求めてゐる。活字になる前に舞台へ上せる――さういふ発表方法を選ぶ若い作家があつてよさゝうなものだ。

 なほ、私たちの求めてゐるのは有望な俳優志願者である。現在、新劇協会の研究生が十三名ばかりゐるが、これらの青年男女は、何れも無月謝で左の講義を聴講してゐる。
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