座の成功をもたらす唯一の手段ではあるまい。恐らく、新劇協会をみて新劇に興味をもちはじめた見物が、やがて、前衛座の舞台から何ものかを得るのかも知れない。
 それくらゐの「遠い眼」をもつてゐてほしい。
 私は、ひそかに、前衛座の仕事に、同情と期待をもつてゐる。私は、その仕事に対し、芸術的立場から批評を試みることさへ一種の冒涜であるとさへ思つてゐる。同人諸君の「美しい意思」に対するわきまへなき仕業であるとさへ信じてゐる。
 人に総てを望むことの不可能であることは、何人も知つてゐる筈である。

 その意味で、私はまた、築地小劇場が、藤森成吉氏の『何がかの女をさうさせたか』を上演した態度に敬服してゐる。ここまで来れば、私は、たゞ、だまつて、襟を正すよりほかにない。あの戯曲が、実際、どれほどの舞台効果を生むか、それは芸術的に最早、問題とする必要を認めない。私は、たゞ、あの戯曲の演出が見物に何を教へ、見物をどれほど感動させ、どこまで見物の魂を「プロレタリアの魂」に結びつけるかの問題を考へればいゝ。その成功は少しも、所謂「芸術的成功」である必要はない。さういふことを云々するのは、作者藤森氏、並びに演出者土方氏に対する「余計なおせつかい」である。
 私は何よりも、あれほど「芸術的」に不評だつた戯曲を、進んで舞台にかけた築地小劇場の勇気、「演劇」といふものに対する当事者の徹底した見識に頭を下げる。これは決して皮肉ではない。その証拠に、私は、今、自分の瞼が熱くなりつゝあるのを感じてゐる。
 藤森氏の小説は、私の最も愛読するものゝ一つである。しかし戯曲はその小説の如く私の興味を惹かない。築地小劇場の演出がどうであらうと、私は、『彼女』を観に行く気はしない。しかし、それはそれでいゝのである。藤森氏よ、それがために私のあなたに対する敬愛の念が少しでも薄らいだのだとは思つて下さるな。芸術家は、芸術的によいものを残しただけで、たゞそれだけで、芸術愛好者の尊敬を受けなければならない。他の方面で、「またよいこと」をすれば、他の方面から、また尊敬を受けるだけである。私が藤森氏に二重の尊敬を払つてゐても、少しも不思議はない筈である。
 私が、今、築地小劇場に対して、新たな讃辞を呈する所以もまた、そこにある。
 宝塚国民座は、目下、私の『百卅二番地の貸家』を上演してゐる。開演後間もなく、未知の演出者から舞台
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