その例外を考へてみてもなかなか思ひつかない。ただし、この種の標題はなんといつても浪漫主義的で、近代の作品にはあまり見かけない。
 西洋では「ロミオとジユリエット」「トリスタンとイソルデ」「ペレアスとメリザンド」「ポオルとヴィルジニイ」などがあり、日本では「お染久松」「お半長右衛門」「お国と五平」等々……。
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 標題そのものから、古風な感じや、新時代的な印象を受けるといふことは、いろいろな連想が絡まるからであらうが、時によると、一見、古風な標題が、なんとなく新鮮な生命をもち、また反対に、いかにも現代的らしい標題が、その実、陳腐、卑俗な型に陥つてゐるやうなことがあるのは、何れも文学の本質に触れた問題であらう。近頃では佐藤春夫氏の「武蔵野少女」などは好い題であつた。
 いかに商品化した文学とはいへ、現今のヂヤアナリズムが好んで取りあげる標題は、多く後者の部類で、物欲しさうといふか、作者の腹が見え透いて、誠に気恥かしいやうなのが間々ある。
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 作品を離れて、標題だけの是非を論じることは無意味のやうであるが、しかし、作者は作品の内容に一番「ぴつたり」す
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