る標題を捜しながら、知らず識らず、標題それ自身の「効果」を専ら気にするのが常であるから、やはり、そこには、一つの技術が存すると見て差支あるまい。従つて、「標題のつけ方」に上手下手といふ問題が起り、更に標題が作品を活かし、その価値をある程度まで左右し得ると考へられるのである。
標題などは、いはば、どうでもいいもので、作品の番号みたいなものであるといふ意見もたしかに一つの意見で、さういふ態度から何気ない風でつけられてゐる標題に、たまたま実に感じの好い「効果的な」ものがあることを思へば、結局、これも消極的な厳密さが標題選択の上に加へられたといふべきであつて、要するに、作者の感覚が「標題」といふ意識の異つた面に働きかけた結果なのである。
これに反して、むつかしい標題、凝つた標題、奇抜な標題、などといふものになると、作者のポーズが眼に浮かぶだけ、なるほど、一と通りの効果はうなづけるにせよ、こいつを批評するとなると、相当文句がいひたくなる。技術が表面に表はれるといふことは、それが余程の「巧さ」にしても、先づ、素人だましといはれるのが落ちであらう。そこでほんたうに「好い」標題といふものは、工夫があつてしかも工夫の跡が見えず、独立した意味をもちながら、なほ且つその裏に十分な拡がりを感じさせ、言葉の配列と所謂語呂の上に特殊の魅力を発揮し、といふやうな条件が備はつてゐなければなるまい。
★
いろいろな作品を通じて、その標題を吟味するのも面白いが、どうも、古今の傑作といふやうなものになると、その作品の価値が総てを引上げてしまふのか、なんでもないやうな標題までが、もう、一種犯すべからざる威厳、格式をもつてしまつて、どうすることもできないのである。イプセンの「人形の家」とか「海の夫人」などは、時代が割に近いせいか、少しく鼻につく類であるが、シェイクスピアになると「ヴェニスの商人」「ウィンザアの陽気な女房達」など、なかなか、今日でも気のきいた題だ。フロオベェルの「ボヴァリイ夫人」はその時代に新しい標題であつたらうと思はれる。この「ボヴァリイ」といふ姓の選び方が既に写実の黎明を告げるものである。ゲェテの「ファウスト」は、やはり、巨大な文学的狼火に応はしい響きをもち、トルストイの「戦争と平和」は、功利文学のトツプを切る題名と称すべきだ。ダヌンチオは「死の勝利」とか「廃都」
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング