ド・ベルジユラツク」「遥なる王女」「暁の歌」などといふ題を選ぶゆゑんだ。
そこで問題は、作品の「調子」に関係して来るのだが、好んで大声で語る作品、何らかの気負ひを示す作品の標題には、一種煽動的な大がかりな響が含まれることは自然であらう。そこから、ある場合には、いはゆる「大衆的」「通俗的」標題が生れ、ある場合には近ごろのやうな「宣伝文学的」標題の型が作り出されるのである。
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標題の選択は一つに作家の「好み」によることは勿論であるが、また、時代の文学的傾向が、その時代の変つた「標題技巧」を生むといふやうなことがある。その極端な例は、日本の歌舞伎劇の長つたらしい標題「浦里時次郎明烏花濡衣」の如き類だ。
作品の主要人物の名をそのまま標題とすることは東西ともに行はれてゐることで、それがたまたま男女一対の名を組み合せたものは、それだけで恋愛物語を想像させるのだからこの標題技巧は相当考へたものだが、それについて面白いのは、日本では、女の名が先で男の名を後にくつつけ、西洋ではそのあべこべだといふことである。別に深い意味があるのではなく、単に語呂の関係に違ひないけれど、いま、その例外を考へてみてもなかなか思ひつかない。ただし、この種の標題はなんといつても浪漫主義的で、近代の作品にはあまり見かけない。
西洋では「ロミオとジユリエット」「トリスタンとイソルデ」「ペレアスとメリザンド」「ポオルとヴィルジニイ」などがあり、日本では「お染久松」「お半長右衛門」「お国と五平」等々……。
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標題そのものから、古風な感じや、新時代的な印象を受けるといふことは、いろいろな連想が絡まるからであらうが、時によると、一見、古風な標題が、なんとなく新鮮な生命をもち、また反対に、いかにも現代的らしい標題が、その実、陳腐、卑俗な型に陥つてゐるやうなことがあるのは、何れも文学の本質に触れた問題であらう。近頃では佐藤春夫氏の「武蔵野少女」などは好い題であつた。
いかに商品化した文学とはいへ、現今のヂヤアナリズムが好んで取りあげる標題は、多く後者の部類で、物欲しさうといふか、作者の腹が見え透いて、誠に気恥かしいやうなのが間々ある。
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作品を離れて、標題だけの是非を論じることは無意味のやうであるが、しかし、作者は作品の内容に一番「ぴつたり」す
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