などといふ今日ならば二流映画のやうな標題をつけて得々としてゐたところ、誠にある時代の文学青年を思はせるが、「ジヨコンダ」となると、歴史的固有名詞といふものは、どうしてかう常に堂々と標題向きであるかを不思議に思はせる。
翻訳すると原名の味が消えてしまふやうなものもある。反対に、日本語の気障な題が、外国語に直していふと、それほどでもなくなるのがある。言葉のもつイメェジといふものは妙なものだ。
日本の現代作家で、標題に人一倍苦心もし、またそれだけ効果をあげてゐるのは横光利一氏だが、氏の作品のもつ風格は、常にあの警抜で、しかも重厚な標題のうちに漂つてゐる。そして、これも翻訳し難きものの一つであらう。
標題で思ひ出したが、ラビッシユといふフランスの劇作家は、それほど大した作品を書いてゐるわけではないが、ただある作品の標題が妙に私の記憶に残り、それだけで、この作家の作品集を買つてみたことがある。その題は「イタリイの麦藁帽子」!(一九三三・五)
底本:「岸田國士全集22」岩波書店
1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「時・処・人」人文書院
1936(昭和11)年11月15日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング