こで、先づ無難な詮衡方法は、長くその道に携つて、世評も相当に高く、貫禄も一と通りついてゐる老大家を物色することであるが、だがその場合、世評や貫禄は必ずしも芸術的業績の大小と、比例しないことを覚悟しなければならぬ。
 文功章をやるといつても、いらぬといふものが出て来るだらう。邪魔にならぬものなら貰つておいてもよささうなものだが、そこは文人気質の潔癖から、そんなものを貰つては一代の名折れのやうに考へ、又は、よろこんで貰つたやうに思はれるのがいやさに、怒らなくてもいいところを怒るものがあるだらう。さういふ場合、当局がどうするか、一寸面白い見物である。
 尤も、仏蘭西のやうに、芸術家として一家を成したものには、悉く「レジヨン・ドヌウル」をやることにし、だんだん勲等を上げて行くやうにすれば、「勲章を持つてゐるもの」より、「持つてゐないもの」に世人の注意が向けられ、「誰が貰つた」といふことより、「誰がまだ貰はない」といふことの方に興味が集まることになるから、「貰ひたい」と思はないでも、「貰はないでゐたくない」と思ふやうになるのが自然かもしれない。
 かういふ心理は、なんと云はうとも人間持前のもので
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