文芸雑談
――某氏との談話――
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)因《もと》

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 実際、毎日会ふ人が沢山あるのですよ。カフエー、バーの代表のかたから、けふはまた将棋の方からの申込みがあるのです。将棋の新体制といふのは知らないですね。だけど娯楽も文化部の仕事だものね。
 当分小説は書きません。転業の覚悟です。まあ大きな団体の幹事になつてゐるやうなものですよ。だからね、外も内もないと思つてゐるのだ。「文化部」といふものは、日本の文化人といふか、文化部門で仕事をしてゐる人が結局これを拵へたといふ形にならなければいけないと僕は思ふのですよ。それによつて、まア、政治と文化といふものが日本で初めて結びつくことの可能性が生れる、さういふものだと思つてゐます。
 僕は、この間も冗談に云つてゐたことが新聞に出てゐたけれど、文学はね、それはさう直接政治とかなんとかに役に立たんけれど、文学者はなんらかの意味で役に立つといふことを、みんなで見せたいものですね。成る程、彼奴は政治家であつたといふやうな褒められ方はしたくないが、政治にもさういふ領域([#ここから割り注]文学者が貢献し得る[#ここで割り注終わり])があつたといふことを世間に納得させたいですね。だから僕の今度の文化部の仕事は、規則で見ると、文化機構の再編成と企画([#ここから割り注]翼賛会改組後文化機構の整備強化といふ名目に変つた[#ここで割り注終わり])といふやうなことなんですけれど、つまり企画および指導ですね。そしてまた文化機構といふと、直ぐ今日国民の再組織といふやうなことゝ結びついて、一般民衆を対象にするやうに考へられるけれど、僕は、さうぢやなくて、日本の政治に文化性をもたせるといふことが、寧ろそれよりも前の仕事で、さういふことによつて、はじめて国民に本当の意味で文化といふものが再認識され、政治と文化とが直接に結びついて、政治も革新され、国民ももつと健全に将来伸びて往く道がつくんぢやないか、さういふ点からいふと、文化部といふ一つの事務局は、これはたゞ、今の知識層全体の能力を其処で集結する場所だといふ風に思ふのです。つまり政治とか、経済とかいふものだつて、やはり文化的な国民生活と結びついてゐなければ、それは非常に歪んだものですからね。
 それから、文化が一国のなかで、特殊なある領域を占めてゐるなんといふことはをかしいことです。
 さういふ印象を与へることは、やはり今までの政治の罪ですね。さつき云つた、政治がもつと、誰かの言葉だつたけれど、もう少し文学をもつてをれば、さういふ印象を与へないで済むな。
 文学も直接、その国策の線に沿ふやうな形を示さなくとも、つまり文学全体のなかに国民の栄養になるものがあればいゝぢやないかと思ふのです。ところが、さういふ云ひ方をすると、これはやつぱり数年前はやつた文化の擁護といふやうな形になるのですよ。僕は、文化の擁護といふ形を知識人がとるといふことは賢明でないと思ふのです。それはつまり、現在日本の国民生活の上で一つの文化的な所産として見られてゐるやうなものが、そのまゝ擁護せらるべきものである――といふことが前提になつてゐるわけで、さういふものでは駄目なんだ。やつぱり、今までのいろいろな文化現象といふものにたいして、つまりこれからはこれぢやいかんのだ、もつとこれから新しいものを創り出すのだといふ事実を、みんなが認めた上でなければ、どうもこの際本当に共同の目標といふものは掴むことができない、と、さう思ひますね。
 若し今擁護すべき文化がありとすれば、それは日本の歴史が創り出したものですから、それはこれからの歴史がそれ以上のものを創り得る筈だし、少くともそれ以上のものを創れるといふ確信があつていゝと思ひますね。消えて無くなるものでないから……。
 たゞ一つ必要なことは、なんですね、われわれがこれが文学だといつてゐるやうな文学がね、今仮りにその現在の政治の文化性のないことのために、幾分何かしら圧迫を感じてゐる事実があるとすれば、これは、擁護といふ形でなくて、本当に教へなければならんと思ふのです。文学といふものはかういふものだといふことを、これを分るやうに、いはゆる文学に無関心な人たちに教へる、要するに、一つの表現を、文学者がぜひ見つけ出さなければならぬときだ……。これをやはり努めなければ、恐らく、文学をまた再び本当に輝かす時に、非常に骨が折れるのですね。
 それで僕がちよつと感じたことは、文学の側衛的任務といふことです。これは軍隊の言葉ですが、文学で前衛といふことは今まで云はれてゐた。今、国防国家として前衛的な文学が頻りと要求されてゐる。それは、作家の才能によつて、さういふものを創り出す人が無論あつてもいゝし、これも結構だと思ふのですけれど、この側衛的任務といふことは、政治家も忘れてはいけないし、文学者自身も、さういふ文学の本質的な一つの役割をやつぱり自覚したはうがいゝんぢやないかと思ふのです。なぜ側衛的な任務といふことが必要かといふと、結局、この非常時といふやうな時代には、特に国民心理のうちに、非常に隙間ができる。これがやはり敵に乗じられる因《もと》になるんです。国民として信用をなくしたり、品位を墜したり、場合によつては国民の能率を下げたり、さういふ危険性をもつた心理的傾向が生れ易い。さういふものを防衛するのは何かといふと、僕は、やつぱり人間的反省といふものゝ上に立つ、自己訓練の行為だと思ふのですよ。これは文学にのみ、或は少くとも文学に最も期待しなければならぬ、他のいろいろなものに較べて文学が最もよくこの役割を果し得るんだといふことですね、これは僕は、もつと主張していゝんぢやないかと思ふのです。
 文学の統制は無論どしどしやつていゝ。但しそれと一緒にだいたい、この、文学が民衆の精神に影響を与へる速さ、それから量、深さといふものを、僕は考へなくちやいかんと思ふのです。此の文学は、仮りに、まア今無くてもいゝやうなものだといふものでも、やつぱりあつていいんだらうな。これはどうも良くないといふものが仮りにあつても、さういふものが民衆の心理の上に与へる影響が、非常に徐々としてゐて、速度が鈍くて、さうしてそれが浅くて、しかもその量が僅かであるといふやうなものが、沢山あるのですよ。さういふものは、なにも問題にする必要はないのですよ。それからまた、非常に深く入り得るものだが、しかし速度が非常に鈍い、或る一国でそれが百年も継続しなければ、国民の精神の上に一つの影を落すやうなことがあり得ない、といふやうな性質のものがある。かういふものも神経質に取締つたり、排除したりする必要はないと思ふ。けれども、速度も早く、入る量も多く、それから深いところまで入つてゆき易いやうな性質の文学は、若しその文学が、現在の時局にとつて悪影響を及ぼすものだとすれば、これがやつぱり一番問題になるものぢやないか。しかし、さういふものは概して、いゝ文学には少いんぢやないかと僕は思ふのです。
 さういふ鑑定を正確にやらないと、文芸政策といふものはできないんぢやないかと思ひますね。ひとの前に出て、行儀がいゝか、悪いかといふやうなことの判断と同じ様に、文学の作品を判断したら、大変な間違ひだと思ひますね。
 こいつ癪に障るといふやうな、さういふ判断が一番危険だと思ふのですよ。横着だとか、生意気だとか、さういふ感情が、文学の統制の上にはどうも起り易いのぢやないかと思ふのですね。それが今までのやり方だと思ひます。まア、街を歩いてゐる女の着物がけばけばし過ぎるなどゝいふ風に、なんだか眼に角を立てゝゐるやうな指導者がゐるのと同じだと思ふのです。民衆の健全な常識がさういふものを嗤つてゐるのだから、ちつとも心配はないと思ふのだが、やつぱり政治は、国民を信じなければできませんね。
 目下のこの、文壇の動きといふか、いろいろな動きが見える。概して、健全なやうに僕には見えるんだけれど、お互の間の批判といふやうなものが、今多少ありますか?
 なぜそれを訊くかといふと、あることが僕には心配なんです。お互の間の批判といふものは、これは文学者は潔癖だから一つの傾向としてありますがね、さういふことが余り起ることは、たゞ単に摩擦を云々――といふやうなことを恐れるわけぢやないが、本当はもつと考へなければわからない問題ばかりぢやないかと思ふのですね。こゝで何か、自分の体の坐り方を急に決めてしまふといふやうなことは、余り必要のないことではないかと思ひますね。
 僕はこんどいろいろな人に会ふ機会が出来て、今まで識つてゐる人も、識らない人も、こゝで何か一つ新しい話題で話し合ふ機会がずゐぶんあつたのですけれど、非常に頼もしいと思ふのですよ。それで僕は非常に勇気が出てゐるんです。実際いふと、今までの政治的指導者が、知識層といふものを実に識らなかつたといふことを、つくづくと感じるのですね。われわれが更めて頼もしいと感じるのは、今まで頼もしくないと思つてゐたのをさう感じるんではなくて、かうまで頼もしいかといふ感じ方ですけれどね。
 国民文学といふ概念についてですか? 無論僕自身も考へますけれど、僕の考へを先に発表して、それを検討して貰ふといふやうな形でなく、寧ろ現在の日本文学の推進力になつてゐるやうな人たちにですね、その問題について、ひとつ研究して貰ふ機関を創りたいと思つてゐるのです。
 その場合にですな、やつぱり文学だけを離さないで、文学と芸術のいろんな部門を一緒にして、話し合つたらどうかと思ひますね。これがまたこれからの日本の文学といふものゝために大事なんぢやないかと思ふのです。そこでまアみんな、いはゆるほかの部門との間に、共通な表現を発見するだらうと思ふのですね。国民音楽とかなんとかいふことも今云はれてゐますし、国民演劇なんといふ問題も盛んに方々で論議されてゐるやうですけれど、かういふ機会に文学、芸術などを一丸として、国民的なものとはどういふものか? といふことを研究する。しかもそれは押し出してゆくといふより、寧ろみんながモヤモヤと頭の中でもつてゐるものを並べて見たら、その中からきつと共通な理念が発見できるんぢやないかといふ期待をもつてゐるわけです。
 こんど文化部で、さういふ意味で面白い仕事ができるだらうと思ふことは、いま文化部門と普通云はれてゐる部門ですね、それが全部文化部の中に入つて、その中で、専門会議といふやうなものを幾つも創るわけです。僕だけの考へですけれど、科学のはうですね、これは技術を含むでせう。それから文学、芸術、宗教、教育、ジヤーナリズム、出版といふやうな専門会議がある。それから特殊問題の研究委員会を拵へる。それは国語問題とか、婦人問題とか、児童文化の問題とか、生活文化の問題ですね。それから対外文化宣伝の問題とか、さういふ特殊問題の会議ですね。さういふものが、結局、各文化部門の人たちの共同作業になるわけです。きつとそれだけで一つの面白い結果が徐々に生れて来るだらうと思ふのですね。
 本当に各部門の推進力になる――さういふ一つの力が、それぞれの面で一番先頭に立つやうな機構にしなければ駄目です。
 これはね、今までのそれぞれの部門を代表できる地位にゐる人が、そのいゝ理解のもとに賛成するんぢやないかね。さういふ気運がありますね。
 ある部門では、どうにも仕方がないから成るやうになれといふやうな、さういふ消極的な部面もあるかも知れませんけれど、ある処ではやつぱりその必要を自覚して、そのはうがいゝんだといふ考へでですな、さうしてその中堅分子を先頭に押し出してくれるやうな、非常に理想的な部面もあるんですね。まア文壇なんかも比較的それに近いでせう。
 教育の問題なんかに就ても、種々改めなければならぬ点がある。実際、不満な点を数へ挙げると無数で、それだけでもこゝ何年間癇癪を起し続けなんですけれど、まアやつぱり新体制に
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