ならなければ駄目だと思ひますね。
 家庭の中でもいろいろ問題がある。それが、僕のはうでは生活文化の研究にはひる。生活文化では、衣食住、礼儀、家族主義――現代に最も適応した家族主義の健全な発達、それから風俗、さういふいろいろな問題をひとつ取り上げて、そいつを国民運動にまで発展させてゆきたいといふつもりなんです。
 まア、生活文化のさういふ風ないろいろな面は、だいたい三点から見られると思ふのです。第一は能率を上げるといふこと、これは国防国家として第一に必要なことだ。それからその次に健康性を取り戻すといふことです。これは精神的には国民の士気の上に最も影響がある。肉体的には無論体力の向上です。それからもう一つの問題は、趣味性だと思ふのです。これは国民品位といふ点、ことに他民族との接触が現在のやうな状態であるし、みづから指導民族を以て任じてゐるのですから、現在のやうな生活の中に瀰漫してゐる悪趣味といふものは、これはなんとかして匡正しなくちやならぬ。
 だいたい、その三点を目標にして、国民生活を高めてゆかうといふ僕の主旨なんです。
 女を教育しなければいかんと云ふんですね。その通りです。さう云ふと女は怒るといふんですか。しかしそれは、女を教育すると最も効果があるといふことなんだ。すくなくとも女の云ふことは、誰でも聴くといふところに帰着するわけで、これは立派なフエミニズムで、いい意味での女性崇拝だ。さう一つ解釈して貰ふんだ。
 きのふ宮本百合子さんと話をしたんだけれど、宮本さんは、「女のひとは」といつて非常に謙遜をして話されたんで、僕は、それはしかし、女のひとに限らない、日本人全体がさういふ傾向があるといふやうなことを二三の問題について云つたんですがね。さうすると宮本さんは実はさう云ひたかつたけれど、遠慮して、「女のひとは」と云つたんだといふので笑つちやつたのですけれど、まアさういふこともあるんだらうね……。
 もうだいぶ話しましたね。僕たちは早口ですね。能率的だ。……しかし、どうもこれはお互に話がよく通じるからなんだけれど、読んで分るのですかね?
 これで放送の資料ができた。此処で喋つたことを喋つてしまはう。あなたの意見も少し入れて……。
 ……放送も、いろいろプログラム編成に苦心があるのでせうけれど、兎に角二十分の間に纏まつたことをしやべるのは無理ですね。
 尤も、二十分でも欠伸の出るやうな話もあるけれど、二十分といふのはきつとすべての人間の雄弁能力の平均を云つたものだらう。なかには五分で恰度いい人もあるし、三時間しやべらせても面白い人もあるし、平均二十分といふのが、日本人の雄弁の平均点らしいですね。
 僕は、いつか放送してね。今の二十分といふことを云はれて、だいたい脚本を書くときに一枚一分といふ見当です。そのつもりで、二十枚書いて行つたのです。時計を見ると、原稿五枚ぐらゐのところでもう、十分過ぎてゐるのです。これはいかんと思つて、ひよつと飛ばして、しまひの処をなんとか繋ぎをつけて話し終つたのです。時計を見ると十七分です。少し早過ぎたな、と思つてゐたが、アナウンサーが出て来ない。人を閉ぢ籠めたまま出て来ない。それから僕は、そツと外を覗いてみたら誰もゐないでせう。仕方がないから外へ出たです、中にゐると呼吸《いき》が詰りさうだから。すると、アナウンサーが飛んできて、失礼しましたといつて、済んだといふことを放送したのです。僕は、なんでもなく家へ帰つたら、家では大騒ぎなんだ。僕の話が途切れてアナウンサーが出ないでせう。僕が卒倒したと思つたのです。眼に見えない想像で、現場のさういふ悲喜劇を勝手に創り出すといふことはなかなか面白いことで、これはラジオの一つの効果として利用してもいゝことだと思つたですね。
 ……さつき国民文学といふ話が出たですけれど、今、人が云ふ言葉をそのまま、まア使つて便利だから云ふんだけれど、今の健康な娯楽とか、健康な読み物とか、いろいろ健康といふことを方々で云ふけれど、健康非常に結構ですけれど、文学の中の健康といふことも、これもなんだか今まで漠然とし過ぎてゐますね。
 普段なら漠然としてゐて結構ですけれど、かういふ時はハツキリさせないと不便ですね。不健康でもなんでもないものが不健康だといふやうな認定をうけることだつて困るし、それから妙なものが健康面することも困ります。
 いろいろな人がゐていゝですよ。非常に立派な作家で、文学のためには自分は今沈黙するのが一番いゝんだといふ人がゐるかも知れないと僕は思ふのです。これは僕は、あつていゝ、その作家の良心は信じなければいけないと思ふのです。さういふ人がゐるか、ゐないか、おそらくゐると思ひますがね。それは尊敬すべき国民だと思ひます。さういふ作家は、或は自分の家族のものなり、隣の子供なり、或は兄弟なりに、国民としての立派な心得を諭してゐるかも知れませんからね。
 文芸政策ですか。さうですね。文学は一番安心してゐますよ、文学は……。僕は、信頼してゐるのです。いろいろな国民の職能といふやうなものを考へてみて、やつぱり文学者や、芸術家、科学者といふものは、最も尊敬すべき国民だから……これは我田引水かね?
 但し、これはね、僕はいつでも思ふのですよ。文学者が、国民全体が俺みたいになつたらいゝなアと思つてものを書いてゐるだらうか、或はさういふ生活をしてゐるだらうか、といふことをいつも考へてゐるのです。どうも、僕はやつぱり、それよりも自分の才能を信じて、ある時は自分が天才であることを望みながら、自分は一般の人間たちの例外であるといふ感じで生きてをり、ものを書いてゐる人が多いんぢやないかと思ふ。僕は、文学者の今までの型としては、後のはうが多いんぢやないかと思ふのです。僕はそれを、実はさういふ人も実際ゐてくれなくちや困る、しかしそれだけが文学者ぢやないんだ、といふ気持でゐるんですよ。つまり、みんな自分のやうであつてくれゝばいゝなアといふことは、それは自尊が云はせるのでなくて、寧ろ非常に平凡な一市民、或は一国民といふものを一つの人間の理想として考へてですね。
 つまり、みんながなり得る限度といふものがありますからね。そのみんながなり得る限度といふもので甘んじたいのですよ。
 日本一の亭主とか、日本一の男とかなんとかいひますが――さういふ概念は大いに再検討しなければならんのです。これは僕の友だちから聴いた話ですけれど、もう実に何処が悪いといふことは絶対に云へないほどすべてのことがキチンとしてゐて、隙がなくつてね、さうして純情である、さういふ男がゐてですね、その細君が家出をしたのですよ。ところが、なぜ家出をしたんだらうかといふことを訊いてみても、細君が誰にも云へないのです。しかし、その男を識つてゐる人たちは、成る程と頷けるんださうです。
 どこがいつたいそれぢや細君の気に入らないのか? 例へば、女学校を出る娘さんに、どういふ人と結婚したいかといふ箇条書を書かせる。何と何と――それを悉く具へてゐるやうな亭主なんです。それでゐて、成る程あれでは一緒に苦労しては敵ふまいといふやうな亭主なんです。その話を聴いて、実にをかしいやうな悲しいやうな変な気持になりましたがね。なるほど、さういふ人間もあり得ると思ふのですね。今の日本の道徳教育といふものは、さういふ男を創る可能性が非常に多いものです。これは大変なことですよ。
 これは、どうも、国民文学もそれになると困るだらうと思つてね。
 国民文学のあらゆる条件を具へてゐながら、これでは困るといふやうなものだね。
 文化と国民の結びつきの問題。それをやらなければ国民を再組織するといふことは、なんにもなりませんね。たゞ、文化部門といふものが、いはゆる国民大衆と離れた存在になつてしまつては、これはゼロになる。
 いはゆる組織といふやうなものはですね、御承知のやうに非常に整然と出来てゐて、ついそれが一番いゝものゝやうな錯覚を起しますからね。これは注意しなければいかんと思ふのですよ。さういふものは別にさう悪い影響をうけなければいゝやうなものだけれど、どうもこつちが組織的な頭がないし、こいつは便利だなんと思ふと危ない。それも今の話のやうに、成る程立派だが、何か欠けてゐるといふやうな、さういふ組織になつてはなんにもならないから……。
 ところが、ドイツ民族といふものは、組織で相当に動かし得る民族なんですね。そこに非常に特色がある。しかし、日本の国民は、非常に柔順で、聞き分けがいゝやうだけれど、やつぱり、あの手では動かんといふ傾向がありますね。
 どんな傾向かといふと、それは、話さなければ分らないといふことです、結局。話せば分るといふのは面白い言葉だ。それは僕は、何かにも前に書いたことがあるけれど、フランスで聞いた話でね、この前の世界大戦の時に、ドイツ軍がフランスへ入つて来て、ある部落を占領したのです。目撃した人の話では、一中隊くらゐですがね。無論そこはフランス兵がゐた部落です。そこを占領して、フランス兵がずつと退却してしまつた後ですが、中隊長の号令で部落の外側に散兵線を造つたのです。散開して、今度はまた号令でもつて、其処にずつと並んでゐる満開の林檎の樹を一斉に伐り倒したのですよ。それを視てゐたのが猶太系のフランス人ですけれど、それが僕に話したのですが、それを見て心が寒くなつた。弾丸《たま》の来る中で憶えてゐたのだけれど、その怖さとは違つた心の寒さを覚えた。フランス人ならドイツへ仮りに攻めて行つて占領しても、其処に若し林檎の樹でもあれば、ドイツが憎らしいといふ感情から、そいつを銘々が勝手にやけつぱちに伐り倒したりすることは、これはあり得る。しかし、号令一下、整然と林檎の樹を倒すといふことは、こいつはフランス人にはできませんと云ふのだ。僕はその話を聴いて、面白いと思つたのですけれど、しかし実はね、その話はですね、非常に不正確なんです。何か、ドイツの国民性とフランスの国民性といふものが比較されてゐてちよつと面白い話で、さういふ風に話されたから、僕はさういふ風に理解したのですけれど、事実は違ふのですね。ドイツ兵が、それを伐つたのは、其処の部落を完全に占拠するために、射撃の邪魔になり、向うを透視する邪魔になる樹を全部伐り倒したのです。そのために号令をかけたので、フランス人が見て理解したのとは違ふわけなんですけれど……。一昨年支那へ往きましてね、綺麗な柳の並木を倒したのを見た。これだなと思つたですよ。勿体ない話だけれど、これだと思つた。
 良識家といふことは普通になることである。世間に変なことが無くなること、要するにそれだけでよいので、さういふ時代になつてこそ、僕は、天才といふものが本当に輝きをもつんだと思ふのです。
 ですからね、一時文壇で盛んに使はれたヒユーマニズムといふ言葉を使はなくても、やつぱり、この人間といふものはいつたいどんなものかといふことについて、もう少し政治家もよく知つてくれ、国民一般も知つてくれて、お互にこの共通な認識を早くもたなければいかんと思ふのです。これが今無いことが、結局いざといふ場合に、国民の本当の力を出し切ることのできない最大原因だと思ふのです。
 今のこの日本の教育なり、日本人のものゝ考へ方のなかに、人間性の無視といふものが瀰漫してゐると思ふのですが、これを救ふものは、文学の力以外にはないと思つてゐます。(昭和十五年十二月)



底本:「岸田國士全集25」岩波書店
   1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「生活と文化」青山出版社
   1941(昭和16)年12月20日
初出:「文芸 第八巻第十二号」
   1940(昭和15)年12月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年1月20日作成
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