文芸と国語
岸田國士

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 文芸と国語といふ標題を掲げたのですが、さういふ問題は考へれば考へるほど範囲が広くてどこかに重点をおかなければ短い時間にはお話が出来ません。どこに重点をおくかといふことになりますと、やはり私は文学者の立場から、日頃小学校や中等学校の国語教育と、国民の文学的教養との関係について非常に疑問に思つてゐることがありますので、その点をこの機会に皆さんのお耳に入れておきたいと思ひます。
 予めお断りしておきたいことは、私は今日の国語教育について決して専門的な研究をして居るものではありません。また小学校の先生方が現在行つて居られる児童の「読方」又は「綴り方」教授法の是非に関して全責任をおもちになつてゐるとは思つてをりません。たゞ私のごく僅かな観察によりましても、国語の教育は国民文化の発揚の上で、従来当局が考へてゐる以上に重要で且つ厄介なものだといふ事実を知り得たのであります。私はまづ素人くさく、かういふ疑問を提出したいと思ふのであります。国語とは一体どういふものか、どうしてこれを日本語と言はないのか、この国語と日本語といふ二つの言葉の間には著しい語感の違ひがある、この距りは何によつて埋められてゐるのか? 小学校時代にはそれ程気がつきませんが、中等学校へ進んで外国語を習ひはじめると、われわれは、その外国語を通して新らしい一つの世界を発見します。それはある外国の特殊な人情風俗を知るといふやうななまやさしいことではありません。綴られた言葉のひとつひとつが、活きて躍つてゐるのです。もちろん、いちいちの言葉の生命をはつきり掴むのには暇がかゝります。しかし、なんでもない平易なリーダーの文章からでも人間の不思議な呼吸と表情とを感じます。言葉が如何に楽しく語られ、如何に自信をもつて語られてゐるかといふことを見抜くのであります。
 それぞれの言葉が発せられる「源」といふ様なもの、つまり、人間の魂の律動がそこに感じられるのです。文学を味ふ感覚の第一歩がやつと若い胸の中に芽生えるのはこの時期であり、しかもそれは殆ど例外なく外国語を通してであります。この経験は、率直に云つて、すべての現代日本人がもつてゐるだらうと思ひます。日本の新しい文学は、まつたく外国語の授けなくして育たなかつたと断言し得るのですが、しかし、国民全体の文学的教養の第一歩が、自国の言葉からでなく、外国の言葉からであつたといふやうな悲しむべき現象が、今後もし続いたとしたら、われわれの文明国民としての自尊心はいつたいどうなるのでせう。
 私は、国民の教養として文学を最も重要なものの一つとして考へるのでありますが、それは言ふまでもなく、目的を情操の陶冶におくのでありまして、人間が最も人間らしく生きる道を教へるのは、勝れた文学の健全な摂取でありますから、道徳も宗教もこの基礎なくしては、ひからびた存在になるのであります。現代の日本の教育は実にこの点で、過渡期的な状態を脱してゐないではないかと私は自分流に考へてゐるのであります。
 つまり、今の社会で、役に立つ人間をつくるといふ、極めて合理的なやうでその実、御都合主義の精神が、決して教へる者ばかりでなく、学ぶものの間にも満ち満ちて居ます。「今の社会に役立つ」といふことは、今の社会の欠陥や病根に、知らず識らず目をふさぐことです。時にはこれに便乗してしかもそれを恥としない人間を作ることです。文学が無用視され、時には危険視されるのはさういふ空気のなかに於てであります。併しさうは申しましても、この風潮が心ある教育者或は一般の識者から批判され、改革が叫ばれてゐることも事実であります。物の真実を見極め、それを人間的な心情によつて美しく感じるといふ訓練は、立身出世主義とは相容れないばかりでなく、永久に政治的方便とも併行しないものです。しかし、どういふ社会的境遇に身をおきましても、文学によつて拓かれた人間尊重の精神は、総ての言説行動の奥に、静かな良心として輝きを保つものだと私は信じます。小学校の国語は実にかういふ重大な人間教育に必要欠くべからざる基礎を与へるものであります。
 しかし小学校児童はその年齢から言つても、決して私は、直接に文学そのものを注入するといふ様な無謀なことをお勧めしてゐるのでありません。そこでたゞ期待し得ることは、国語の諸科目を通じて第一に「言葉」に対する愛と尊敬とをもつやうに導くことであります。云ひ換へれば、言葉の機能と生命とを、完全に、且つ十分に児童の頭に移し植ゑること、なるほど言葉といふものはそんなものであつたかといふ驚異と好奇心とを与へることにまづ成功すればいゝのであります。ところでさういふ結果をもたらす方法について、やはり国語の教授を受持つ先生方に一通り文学の精神と技術、内容と表現についての知識と感覚を備へてゐて頂きたいと思ひます。元来現代の文学は民衆全体のもので、決してやかましい専門はないと私は考へてゐるのでありますが、例へば、大衆小説は面白いが、純文学は分らんといふ人があつたとすれば、それは文学を専門にやらないからといふのではなくて、寧ろ文学を純粋に享け容れる人間的感情が欠けて居ると極言することができるのであります。欠けてゐるといふことは、つまり円満に発達してゐないか、或はひとりでに枯渇してしまつたか、そのどちらかであります。その原因は精神的に自分を高めようといふ切実な要求がなかつたからであります。散文でも韻文でも、極く特殊なものを除いて、普通の常識的な教養で良いものは良いと感じられる筈です。それに理屈をつけることだつてそんなにむつかしくはありません。人間さへ立派に出来てゐれば、立派な批評ができます。少くとも、作家は、さういふ批評に耳を傾けるのであります。
 そこで国語と文学との関係に入りますが、最初に疑問を出しました通り、なぜ国語を日本語と言はないか、私なども学校で、国語は習つたけれども、日本語は習はなかつたやうな気がしてゐる。今の小学生は、その点では随分幸せだらうと思ひますが、私がちよつと気のついたことをこゝで申しますと、第一に教科書全体が「書かれた文章」であります。勿論活字になつて居るから当然書かれた文章とも言へますが、もつと厳密な意味で書かれた文章ばかりであります。文語、口語といふ区別はあつても現代の口語体は文章として書かれるために出来上つてゐるもので、決してこれは「話される言葉」ではありません。「書かれる言葉」と「話される言葉」とが現代の日本程極端に分れてゐる国語は、ほかにはないやうです。西洋の言葉は幾つも知りませんが、「書かれる言葉」と「話される言葉」の距離が日本語に比較するとずつと近い。この現象はどういふ結果を導き出すかといふと、吾々が物を喋る時と物を書く時とで同じ事柄でも頭を通過する仕方が全く違ふといふことです。考へた挙句書く場合と、即興的に喋る場合とでは勿論思考の形が違ふことは普通ですが、その違ひ方が非常に甚だしい、或る場合には喋る時と書く時と反対な矛盾した二つの表現になることすらあります。是は少し厳密に自分の物の考へ方と書方を注意して較べて見るとわかります。その空隙を埋めようとすることが、物を書く練習になることは事実であります。書く時と喋る時とでは思想や感情のポーズがそれ/″\思はざる自己欺瞞に陥るのです。国語教育といふものが若し完全な日本語教育であるならばこの点をもつと考へないといけないのではないかと思ひます。
 こゝで標準語の問題が起つて来ます。現代文では、教科書として標準語を使ふことが当然であるが、是は実に困つたもので、これくらゐ文学的でない言葉はほかにありません。東京語を基準にして標準語がつくられたものだと言はれてをりますが、東京語には東京語の調子といふものがあります。これは元来符牒に過ぎない言葉を活かしてゐるものです。標準語は言はば性格も気質もない言葉です。人間ならばデクの坊です、面白い文章、熱のある文体が生れる訳がありません。
 そこで標準語でもこんな文章が書けるといふ例をいくつか挙げることが出来るとすれば、教科書の中にさういふ文章があるとすれば、それは標準語で書くために書かれた文章ではありません。標準語を自分のものにして、その思想感情を意の赴くまゝに愬へたものに相違ないのです。それが偶々標準語に合してゐるといふならば、標準語で書かれてゐても立派な文章になるといふだけであります。併しそれは唯単に標準語であると言つて片付けることの出来ない文章であります。さういふ文章ではじめて、言葉それ/″\の語感が活かされることになるのであります。
 序でに方言と訛りについて一言附け加へます。私は戯曲を書く場合の注意として、或る地方出身の若い作家にこんな注意をしたことがあります。「君はまだ標準語をマスターして居ない、従つて登場人物に標準語を使はせようとするのは無理だ。君だけの才能があれば相当な戯曲が書けると思ふが、書く場合、人物の各々に君自身に親しみある言葉、君の出身地の言葉を使はして見給へ、尠くとも、標準語を使ひながらついお国訛りを出すやうな人物、標準語を使ふつもりで居りながら、うつかり自分の国の方言がとび出すといふ人物を意識的に書いて見給へ、会話はずつと生彩を放つし、全体の現実感が高まつて来るに相違ない。」彼は私の言ふ通りにしました。すると当時、少し大げさに言ふと、文壇をあつと言はせる様な傑作を書きました。是はどういふことかといふと、標準語を学ぶのは決して東京弁を上手に使ふためでなく、自分の使ふ言葉が相手に通じるといふ自信をつけるためなのであります。
 私は方言は非常に好きです。地方の人が純粋にその土地の言葉で話合つてゐるのを聞くのは美しいものだと思ひます。公の場所では標準語が使へないと不便ですが、下手に地方弁をかくすやり方でなく、寧ろ標準語を地方語化するぐらゐの信念と気魄をもつて行きたい。全然想像もつかないやうな方言は他国の人には通じないので、これは困りますが、訛りやアクセントは、幾分残つてをつた方がその人の個性が出て、それがちやんとした教養と人間的魅力に結びつけば、どこへ押出しても立派な言葉、決して品位にかゝはるやうなものではありません。かういふ説を樹てると、折角学校で標準語を教へるために努力を払つておいでになる先生方のお仕事を無視するやうにきこえるかも知れませんが、併し必ずしも標準語普及を無意味とするのではなくて、標準語は一応日本の隅々まで徹底させる必要はありますけれども、併し方言、地方の言葉、自分の言葉を必要以上に卑下するといふことの精神を排斥したいのであります。唯自ら方言への愛情にも限界があるといふことは皆さんも御気付きのことゝ思ひます。
 次に申したいことは、「書かれる言葉」としての国語乃至綴方については、今日全国の小学校で向ふところがはつきり見究められてゐるやうに思ひます。私も実はこれには感心してをります。例の「綴方教室」といふやうないくぶん変態的な産物は別として、まづ/\小学校の先生方は、この点、文章を書く、或は文章を理解する、読むといふことでは実によくやつてゐて下さると大に意を強くしてゐる次第であります。しかし「話される言葉」としての日本語の訓練は、是はどうでせう。実を申しますと、今日これを小学校の先生方に注文するのは少し見当違ひかも知れません。何故ならば現代の「話される日本語」といふものは頗る混乱してをりまして、何を標準とすべきか、何を捨て、何をとるべきかさへ何人も十分に研究してゐない有様なのですから。そこで現代の少国民に今の中から「ものを言ふ」修業をしてもらひたく、これを指導し育てあげ、小学校を出て直ぐ社会へ出て働くものと、中等学校に進むものとに論なく、何れも直ちに世俗的な「お喋り」の中にとびこんで、紋切型と
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