月並な口上のとりことなる彼等に、少しでも「真の人間の言葉」は何かといふことを会得させておいて頂きたいのです。
私は嘗て「語られる言葉の美」といふことを文章に書きました。又或る中等女子国語読本に「言葉の魅力」といふ題で「話し方」の分析と心得とを書いたことがあります。是は昔から言はれて居る「話術」とは全く違ふものであります。寧ろ西洋の正しい文学的伝統の中にあるエロカンス、これを雄弁と訳してゐるやうですが、それに近いものであると思はれます。日本では、雄弁を政談演説が独占してしまつた結果、甚だ雑駁な、口角泡をとばし、悲憤慷慨する調子のもの、或は、婚礼のテーブルスピーチで、つまらぬ洒落をまくしたてるやうな型のものになつてゐますが、本来ギリシヤに生れ、西欧諸国に発達したエロカンスは、そんなやすでなものではない。而もこのエロカンスは、文学の畑の中で美事に実を結んだのです。日常生活の中に根を下し、政治、社交、学問、商売、恋愛さへ、是なくしては成立たぬといふぐらゐになつてゐます。国際的な交渉において日本が何時でも損をするのは、政治家や外交官が勝れた底力のある雄弁を持合せてゐないことが大きな原因であります。小にして町村内の紛争等も双方がお互に自分の意志感情を伝へる方法がまづい、或は双方の意見を輿論に訴へるのに強靭な舌の力を有つてゐないからだと思ひます。それは現代日本の大きな弱点であるやうに思ひます。それで日本ではまづ雄弁に対する既成観念を打破する必要があります。よく全国青年団雄弁大会をラヂオで聞きますが、そこに出て来る選手の話振りを聞いて、私は冷汗をかいた記憶があります。それは、空疎な怒号であり、安価な興奮の擬態、代読させられてゐるのではないかと思はれるやうな月並な美文調なのです。かういふものが選手として選び出される現代の風潮から先づ少国民を救ひ出さなければならないと思ふのです。皆さんはどうお考へになりますか。これは勿論国語の領分以外でせうが、国語教育に特に御熱心な諸先生方にこの問題について考へて頂きたいと思ふのでございます。
話がこゝまで来ましたから、文学を散文と韻文に分け、更に散文、韻文の何れかに属し、又或る時は何れからも独立した一つの形式、即ち戯曲のことについて一寸申上げます。
戯曲即ち脚本でありますが、小学校の国語読本には脚本として書かれたテキストが取上げられてゐないのではないかと思つて、今日家を出がけに、迂遠な話ですが、子供達の国語読本をもつて来させてばら/\と見たのであります。脚本の要素は慥かにあるやうです。殊に四年級でしたか、「五作ぢいさん」といふ対話、唯今下の部屋で伺ひますと、六年にはリア王、これは慥かに戯曲の一節です。対話は勿論戯曲の文体として考へていゝものでありますが、併し対話のすべては必ずしも戯曲的ではありません。後程この問題に触れますが、こゝで児童心理など詳しく知らない私でも、子供が対話形式によつて書かれたものは案外よろこぶものだといふことに気がついてゐました。今日も先生に訊いてみますと、会話は子供が面白がるものだといふことです。私のみるところでは、それは、自分達の喋つてゐる言葉に近いといふことがひとつの理由、それと、とにかく吾々が言ふ「対話の魅力」、それを大人以上に素直に受取り、感じて、自分のイメージとして誤りなく頭の中に活かす能力を実際にもつてゐるからだと思ひます。これは子供が「書かれた文章」よりも「話される言葉」としての対話から、一層、言葉の感覚を植ゑつけられることにもなるのであります。同時に、この対話といふ形式がすぐれてゐればゐるほど、子供の想像力は「言葉の生命」に直接触れて動き出すといふ微妙な作用を示してゐるのだと思ひます。といふことは、つまり対話の文体は、外の説話体或は描写体の散文よりも、言葉そのものの生命といふものが一層身近に感じられるからであります。そこで私は「対話」といふ形式に子供の表現力を伸ばす一つの鍵がある、言葉の秘密を探り出させる端緒がありはしないかといふことを考へてをります。教科書の中の現代文の対話について少し考へてみますと、対話にもさき程申しましたやうに色々あつて、散文としての対話、韻文としての対話、もう一つ戯曲的対話といふものがありますから、その区別を十分にして頂きたいのです。これを混同すると散文的な対話を強ひて戯曲的対話として取扱ふ危険があります。つまり散文としての対話に戯曲的対話の表現を無理に与へることになると、子供の想像力を混乱させることになります。世間に通用してゐる児童劇、童話劇といふものを見ると、この点が実に目茶々々であります。
それでも子供は結構自分の空想でそれ/″\の場面を原作以上に面白く運ばせてゐますが、併し「言葉の訓練」といふ点から見ると非常に害があるやうです。一般の児童読物もさうでありますが、殊に対話の部分は子供が口真似をして日常生活の中に取入れる。そこで「対話」の読み方、厳密にいひますと「対話の言ひ方」又は「話し方」は国語教育の立場から非常に注意を要することではないかと思ひます。殊に是が戯曲的な感覚をもつて書かれた「対話」である場合は、これを肉声化することによつてその生命が決定的なものとなります。つまり肉声化の仕方が悪いといふことはその文章を致命的なものにしてしまひます。是はその中で言はれてゐることが面白いとか面白くないとかいふこと以上に、そこには外の文体には見られない独特な一つの魅力がある、それは心理の起伏を瞬間にとらへる、誘導的といふ言葉を使ひます、誘導的な演劇的イメーヂといふものが戯曲の文体の中では躍つてゐるのです。例の「五作ぢいさん」のやうな対話も、折角かういふ形式を選んだのだから、もう少し戯曲的起伏をもつたものにしたかつたと思ひます。このまゝでは散文的対話です。それも勿論あつてもいいのですが、かういふ人物と情景を選んだならば、態々散文的に書く理由はないでせう。この一章は教科書全体を通じて、その意図の面白さにもかゝわらず、結果は成功と思へません。子供も物足りない気持がするでせう。雄弁が政談演説的なマンネリズムに陥つてゐるやうに、芝居全体のせりふも今日ではマンネリズムを脱してゐません。児童劇も、新劇の影響下にあつて好ましからぬ癖のある調子を知らず識らず身につけてゐるやうに思はれます。是も何とかしなければならないと思ひます。
小学児童の演ずる学校劇も先生方の正しい指導によつて素晴しい芸術教育になると思ひますが、それには脚本の選び方が大切であります。国語教育の補助といふ見地からは、素朴で而も生命感の溢れたせりふで書かれたもの、さういふ標準で選んで下さることが根本的な着眼であると思ひます。戯曲的な文体に親しみ、本当にその魅力を感得する能力が子供に出来れば、さうしてそれを非戯曲的な対話と区別する能力が子供に出来て来れば、しめたもの、これが軈て国民の生活の中でめい/\の「話す言葉」を洗練し、楽しく豊富にし、力強くします。日本人がおざなりと紋切型から解放され、自分自身の表現をもつ最初の手引きは案外かういふところにあると思ひます。
最後に言葉といふことから少し離れて、現行国語読本の中にある一つの精神について簡単に所感を申述べます。
私は文部省編纂の国語読本が国民教育の立場をはなれて存在しないことはよく承知してゐます。他の科目との関連といふことも察せられますが、それにしては周到な注意の下につくられてゐると感じてをります。一通りあらゆる形式のものが網羅されてゐます。文体から見ますと現代語は標準語といふ制限のあるためもあるし、内容が幾分啓蒙的でありすぎるために、それ/″\の形式は揃つてゐますが、形式が要求する文体的魅力が十分発揮されてゐない憾みがあります。
もう一つ、これは少し僭越な言ひ方かも知れませんが、同じ物語りでも何となく美談めいたもの、出て来る人物が例外なく俗にいふ感心な人物でありすぎるのが気になります。これは児童の精神に健康的なものを与へるといふ配慮から一応御尤なことでありますが、文学者の立場からは異論があります。といふのは、日本人の美談好きは今や少々鼻もちならぬ、頽廃的傾向を生んでをります。それは偽善につながるばかりでなく、人間的価値を表面的な言葉や行為で片付けようとする浅薄な形式主義に陥ります。根本は明治以来の立身出世主義の風潮に帰すべきで、俗人横行の最大原因です。人間の本性や、必然の心理はかういふ現象の中ではしば/\無視されるのです。真実が真実としての厳粛さを失ひ、自然の美しい心情が日蔭の花のやうに萎んでしまひます。美談そのものが悪いのではありません。これを余りに担ぐ精神は抜馳けの功名心を煽ります。一人良い児になることを奨励する結果を生むのです。美談は常に凡人を必要以上に英雄化します。つゝましい人を強ひて派手にし、不幸なものを何となく幸福に見せかけます。美談は概ね万人の美徳を個人の占有化し、次に現はれるものを模倣者と見倣す惧れがあります。美談は何よりも人に知られることをもつて第一の条件とします。かくれた美談とは言葉の遊戯です。真の美談の主は人の語草になることを辛く恥かしく思ふかも知れません。日本人は今や美談の種拾ひです。何が美談かといふと多くは人間として当り前のことをしたのが美談、それでは一般日本人は人間として当り前のことをしてゐないかの如くに思はれます。普通の人間では出来ないやうなことをやつたといふ美談でも、よく考へてみると、その人間の美徳がさうさせたのでなく、異状性格や心理がさうさせた場合があります。珍しいかも知れないが、感心するには当らないといふ事実が直ぐぴんと来ることがあります。子供にもぴんと来るのです。いちいちそれを詮議するには当りませんが、美談を掲げてその効果を期待する精神の中には、さういふ隙間が往々あつて、やゝ深くものを見、鋭く判断する力をもつた者の顰蹙を買ふのです。文学はさういふ意味で、卑俗な美談尊重に大いに反撥します。が、これは文学が道徳と相容れないといふ一部の誤つた見方と何も関係はありません。文学こそ人生の真の美しい意志と感激とを、表裏錯綜した現実の中から仮名の人物に托して拾ひあげるものであります。
国語教科書ばかりでなく、かういふ現代教育に対する忌憚ない批判は、皆さんの同感を得がたいかも知れませんが、これは単なる不満ではありません。皆さんの手加減が如何に働くかによつて寧ろ教科書編纂者の善良な意図があやまちなく達せられるのだらうと思ひます。そこで私は、先生方の教育者並びに人間としての確乎たる良心に信頼するものであります。
[#ここから2字下げ]
昭和十四年六月、東京文理科大学内に開催された全国小学校教員国語協議会の需めに応じて行つた講演の速記である。同年七月、この速記は、「教育研究」に掲載され、なほ「革新」誌上にも転載を許した。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「岸田國士全集24」岩波書店
1991(平成3)年3月8日発行
底本の親本:「現代風俗」弘文堂書房
1940(昭和15)年7月25日発行
初出:「教育研究」
1939(昭和14)年7月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング