あります。
そこで国語と文学との関係に入りますが、最初に疑問を出しました通り、なぜ国語を日本語と言はないか、私なども学校で、国語は習つたけれども、日本語は習はなかつたやうな気がしてゐる。今の小学生は、その点では随分幸せだらうと思ひますが、私がちよつと気のついたことをこゝで申しますと、第一に教科書全体が「書かれた文章」であります。勿論活字になつて居るから当然書かれた文章とも言へますが、もつと厳密な意味で書かれた文章ばかりであります。文語、口語といふ区別はあつても現代の口語体は文章として書かれるために出来上つてゐるもので、決してこれは「話される言葉」ではありません。「書かれる言葉」と「話される言葉」とが現代の日本程極端に分れてゐる国語は、ほかにはないやうです。西洋の言葉は幾つも知りませんが、「書かれる言葉」と「話される言葉」の距離が日本語に比較するとずつと近い。この現象はどういふ結果を導き出すかといふと、吾々が物を喋る時と物を書く時とで同じ事柄でも頭を通過する仕方が全く違ふといふことです。考へた挙句書く場合と、即興的に喋る場合とでは勿論思考の形が違ふことは普通ですが、その違ひ方が非常に甚
前へ
次へ
全20ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング