はないかと思つて、今日家を出がけに、迂遠な話ですが、子供達の国語読本をもつて来させてばら/\と見たのであります。脚本の要素は慥かにあるやうです。殊に四年級でしたか、「五作ぢいさん」といふ対話、唯今下の部屋で伺ひますと、六年にはリア王、これは慥かに戯曲の一節です。対話は勿論戯曲の文体として考へていゝものでありますが、併し対話のすべては必ずしも戯曲的ではありません。後程この問題に触れますが、こゝで児童心理など詳しく知らない私でも、子供が対話形式によつて書かれたものは案外よろこぶものだといふことに気がついてゐました。今日も先生に訊いてみますと、会話は子供が面白がるものだといふことです。私のみるところでは、それは、自分達の喋つてゐる言葉に近いといふことがひとつの理由、それと、とにかく吾々が言ふ「対話の魅力」、それを大人以上に素直に受取り、感じて、自分のイメージとして誤りなく頭の中に活かす能力を実際にもつてゐるからだと思ひます。これは子供が「書かれた文章」よりも「話される言葉」としての対話から、一層、言葉の感覚を植ゑつけられることにもなるのであります。同時に、この対話といふ形式がすぐれてゐればゐ
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