文学者の一人として見た現代日本語
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)主人《あるじ》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
(例)それ/″\の
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 私は国語問題について別段専門的な研究をしてゐる者でなく、従つてこの問題について適切な意見を述べる資格はないのであります。一作家として現代の日本語について何か考へて居ることでもあればといふことなら、この機会に少しばかり感想を申上げて見たいと思ひます。従つて、今日御話しすることは多分極く常識的な意味の言語風俗と云ふことになるのではないかと考へます。
 先づ現代の日本語を現在の文学界が如何に取扱つてゐるか。そこに何か特殊な現象でもないかと考へて、二三気づいた点があるのでそれから申上げて見たいと思ひます。
 現代の日本文学と申しましても、その範囲は広いのでありますけれども、比較的若いゼネレーシヨンの中で特に目につく現象としては、一般に西洋風の表現が非常に取入れられてゐることを注意しなければなりません。西洋風の表現といふのは直接外国語を学ぶことから影響された点もありませうし、また外国文学の翻訳を読むことから影響を受けてもをりませう。更に一層広く考へれば、現代日本の知的な分野に於ては、西洋風の物の考へ方、感じ方が非常に滲み込んで居ると云へます。其処からもさう云ふ現象が起ると思ふのであります。純粋な日本風の表現では自分の考へや感情が十分に云ひ現はせなくなつて来てゐる。そこへもつて来て、文学本来の反俗的な精神と云ふものが、一般に使ひ古されてゐる表現を必要以上に毛嫌ひをする傾向を生んだのであります。例へば日本人が普通に使ふ言ひ廻しと云ふものを殊更それを俗な言ひ方として却ける、避けると云ふやうなこと。ところが一方で、西洋風の云ひ廻しならば、それが向うでは月並な表現であつても、それを新鮮な、独創的なものとして、知らず識らずこれを受け入れるといふ風があります。さう云ふ風な傾向から、作家が独自な文体を生みだす努力のなかには、新しい感覚主義と言葉の遊戯とが混り合つてゐます。
 少し断片的になりますが、第二の現象は最近非常に地方の言葉、つまり方言を会話として使つた作品が書かれ、流行とまでは云へますまいが、目立つた傾向を作つてゐるやうに思はれます。この地方語の特殊な魅力と云ふものが、作品を成る程或る場合には非常に面白くしてをります。その面白くしてゐる原因は、さう云ふ田舎の言葉で語る人物の生活が都会人にとつては目新しいといふ場合もありませうし、特殊な風俗習慣の描写といふことがその作品の魅力になつてゐる場合もありますけれども、もう一つ、この地方語そのものが自から持つて居る一つの魅力と云ふものが考へられます。私の見解では、地方語に依つて書かれてゐる作品の魅力は、結局その作品を書いた作家が自分自身の言葉で書いてゐると云ふことにあるのだと信じてをります。と云ふのは、その地方語を使つて会話を書いてゐる作家は、実は標準語を使つて書くよりも言葉を適切に選択し、活々と駆使し得て、その結果、表現に力と味ひとが出て来るのだと私は考へます。それは一面かう云ふことになります。つまり同じ作家が会話を標準語で書くよりもその作家が若し地方出身の人ならば、その自分の生れた土地の言葉で書く方が自由である。即ち極端に議論を進めて行くならば、その作家はまだ標準語と云ふものを十分自分のものにしてゐないと云ふことになる。また同時に、東京語が大体標準語の基礎になつてゐるものと考へられますけれども、而かもそれがまだ標準語として日本では十分権威づけられてゐないことにもなると思ひます。少くとも会話の文章の上では私はさうだと思つてをります。
 第三の現象は、日本の現在の文壇が既にその文壇の特殊語と云ふものを生みつゝあると云ふこと、つまり文壇だけで通用すると云ふやうな言廻し、更にそれが作家である場合に、知らず識らず使つて居る一つの言葉の癖、さう云ふものが既に生れつゝあると云ふこと、これは文学の畑ばかりではありませんが、ある職業は、必ずその職業の臭ひを帯びた言葉使ひを生む。それが日本では甚だしいやうに思はれます。ちよつとした例ですが、「かう云ふ風なこと」と普通言ふ場合に「かうしたこと」と云ふ言ひ方をする。これなどは殆ど現在一般に若い人の間で使はれてゐますが、この言ひ方は民衆の間から起つた言葉でなくて、文壇の習慣がヂヤーナリズムを通じて一般化したものだらうと思つてゐます。それから「かう云ふ感じの云々」、これなども矢張りさうではないかと思ひます。それからもう一つは、文壇ヂヤーナリズムを通じて用語の混乱と云ふことが見られるのであります。用語の混乱と云ふと多少専門的な言葉と云ふことになりませうが、その一例として「創作」と云ふ言葉を文壇ヂヤーナリズムの上では小説と云ふ意味に使つてをります。勿論、一つの綜合雑誌の創作欄と云へば、小説も戯曲も載せるのですが、唯「創作」と云ふと小説と解するのが常識になつてゐる。これなども一つの用語の混乱だと思ひます。以上のやうな現象が平然として行はれ、また私自身もさう云ふ現象の中で仕事をしてゐるのでありますから、今日の文学者は、概して、二三の特志家を除けば、厳密な意味でわが国語の正しい使ひ方、正しい発展と云ふ風なことについて口巾つたいことは言へないのであります。
 以上のやうな前置をした上で、私は少し文学者として見た現代の日本語と云ふものについて申上げて見たいと思ひます。現代の日本語は色々な性格を持つてゐるのでありますけれども、その性格はどう云ふところから生れて来たのかと云ふことは非常に面白い研究になると思ふのであります。併し私はまださういふ研究はしてをりませぬし、唯そこに面白い研究題目があると云ふことだけ気がついてゐるのであります。そこで更にもう一歩進めて、現代の日本語の言葉としての弱点を、寧ろ現代の日本語が使はれてゐる状態の中に見出して、いつたいこれでいゝのかと思ふことが度々あります。その弱点について私の気のついたことを一つ二つ挙げてみますと、先づ一般に現代の日本人は言葉をほんたうに自分のものにしてゐないと云ふことを言ひたいのであります。「言ひたいこと」と「言つてゐること」との間のギヤツプが常に感じられる。即ち紋切型、月並な辞礼と云ふものが非常に多過ると云ふことになるのだと思ひます。それは実際に於て感情が言葉から游離してゐると云ふことであります。場合によつてはそれ/″\の人の思想が言葉に依つて裏切られてゐると云ふことになると思ふのであります。例へば現実の問題を非常に神秘的な表現で、有難く思はせやうとすると云ふやうな傾向が生れて来る所以も其処にあると思ふ。これは現代語と云ふものの基準が今日までまだはつきり立てられてゐないこと、つまり各自の職業身分等によつて使用する言葉の領域が非常に限定されてしまつてゐる。社会の各部門の共通の言葉と云ふものが完全に出来あがつてゐない。さう云ふことが一つの原因であります。またもう一つの原因はこの言葉遣ひがその儘その人の身分階級を示すと云ふやうな因襲に一方で縛られてゐること。従つて各人の言葉遣ひは真先に型にはまり、無難でなければならぬと云ふことを考へる――知らず識らずさういふ頭で物を云ふことが心理的に一般日本人を支配してゐると思ひます。
 今度は結果でありますけれども、さう云ふ個人々々の表現の貧しさ、固苦しさ、粗雑さ、さう云ふものが、現代日本の社交なるものを非常に殺風景な、不活溌なものにしてゐる。少し敏感な者は人の前で下手なことを言ふまいと消極的な努力をする。少し神経の太い者は人の前で平気で無軌道な放言をし、一座を白けさせる。これが現代日本の著しい現象だと私は認めます。そこで、普通の社交と云ふものゝ中には月並な挨拶と御座なりが瀰漫してゐるのであります。是が第一の点。
 もう一つは、言葉と云ふものの機能とそれからその言葉の機能の限界とについて一般の認識が足りないことであります。口で喋つたり文字で書いたりしたことを必要以上に重大に考へる癖が今の日本人にはある。これは言葉の力、微妙な作用に対して非常に勘が鈍くなつてゐる証拠であります。つまり「かう云ふことをいつた」といふことと「かういふ風に言つた」と云ふことの違ひがはつきりしない。これはまた現代の日本人が過去から受け継いだ一つの形式主義に繋るものだと思ひます。これも例を挙げると沢山ありますけれども、例へば今日の時局が国民にさう教へるある種の忌むべき言葉があるとします。その忌むべき言葉の範囲が非常に漠然としてゐる。漠然としてゐるから、国民は戦々恟々としてゐる。例へば「俺は自由主義者だ」とでも云へば大変だと考へてゐる。戯談にでもそんなことは云へないやうに思つてゐる。元来、そんなことぐらゐ云つても何んでもないので、唯それを如何に言つたかと云ふことが重大なのであります。かういふ誤つた判断は言葉の機能の限界と言ふものに対する認識の不足から来るものだと思ひます。そこからまた、スローガンと思想との混合、取違ひ、さう云ふものが生れて来ますが、また其処から、標語と云ふものの価値が過重に評価され、従つてその濫造と云ふ弊が生れて来ます。
 更に図書の検閲、言論の取締と云ふものの標準について、これは検閲を受ける者、検閲する者、両方にそれぞれ一つの困難な課題が生じて来ると思ひます。これは我々が一般にもう少し考へてもいいのぢやないかと思ひます。
 第三に、活きた言葉と死んだ言葉と云ふものがまだ無選択に使はれてゐる。或る人は死んだ言葉を使つてゐて、それが死んだ言葉であると云ふことを知らないでゐる。これも困つたことだと思ふのであります。社会的に生命のある言葉は常に民衆の生活から生れて来る。その生活を反映するのはヂヤーナリズムと文学だと思ひます。現在ある人の使つてゐる言葉――無論文章を含めてゞありますが、それに依つて、その人がヂヤーナリズム、或は現代の文学にどの程度に接触を保つてゐるかと云ふことがすぐにわかる。官吏や政治家などは実にその点、面白いくらゐにわかります。少くとも知識層だけについてみますと、かういふことが云へるのは、日本だけではないかと考へます。民衆を相手とする職業である場合には、その人の言葉遣ひに依つて民衆が動かされるかどうかと云ふことがほゞ見当がつく。或は少し言ひ過ぎかも知れませぬけれども、現代の政治に魅力がないと言はれる、その原因の一つは、政治の衝に当る者が社会的に生命のある言葉を使つてゐるものがごく少いからだと私は私流の考から、さう結論を下してゐるのであります。そこで前に申上げましたやうな三つの理由から、私はわが国語の改良問題の根本は、言葉そのものに手を着けると同時に、言葉に対する一般の観念の向上、これが重要な仕事ではないかと思ふのであります。民衆は無意識に既にこれを求めてゐる。言葉と云ふものはどう云ふものであるか、また言葉は元来、自分たちのもので、全国民の間で共通に使はれるものでなければならぬと云ふことを民衆は本能としてこれを承知してゐると思ふのであります。そこに目醒めることの最も遅いのは現代の日本の指導階級ぢやないかと私はひそかに思つてをります。これが先づ文学者として私が現代の日本語について考へてゐることであります。
 最後にこの国語と云ふものの改良の方針、その技術と云ふことについて、素人考で考へますと、先づ日本語をどんな国語にしようと云ふのかと云ふことが第一の疑問になるのであります。そこで次に起つて来る問題は、日本語のどういふところが主な欠点か。第三はその欠点を除くと同時に長所が失はれはしないかと云ふ事、これがまた問題であります。先づこの三つの疑問でありますが、これは疑問に過ぎませぬけれども、この疑問は、たまたま私が最近読みました書物によつて更に深められました。その書物といふのは、あるドイツ人の書いたフランス国語史でありまして、そのなかの十七世紀から十八世紀にか
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