けての所謂、国語改良運動について書かれた部分であります。無論さう云ふ方面で造詣の深い方がおいでになるでせうが私の読みましたものは可なり要点をうまく伝へてあると思ひましたので、ちよつとそれを御紹介しておきたいと思ひます。
フランス語の統制整理と云ふことが考へられたのは御承知の通りに十七世紀のことですが、その運動の先頭に立つたのはマレルブと云ふ詩人であります。このマレルブが一六〇九年に宮廷に召されて、さうしてフランス語の改良についての相談を王から受けると云ふのが発端であります。このマレルブと云ふ詩人は詩人としての才能から言へばまづ二流どころといふことになつてをりますが、このマレルブの仕事は単にその作品の上でフランス語を非常に純粋化したばかりでなく、フランス国民の全体に言葉といふものに対する新しい関心を植ゑつけた偉大な功績を持つてゐる人であります。マレルブは先づ誰にでも分る言葉、それをモツトーとしてフランス語の整理にかかりました。古語、新造語、外来語、地方語、学術用語、悉くこれを排斥しました。十六世紀頃から非常に学術語が生れましたが、これを普通の言葉の中では使つてはならぬことにした。非常に極端な整理案でありましたが、しかし幸なことにはこのマレルブの方針は忠実に社会の一部で守られたのであります。その社会の一部とは何処かと云ふと宮廷であります。これはマレルブ一人の力でなく、無論そこには王の意思が強く働いてをつたからだと思ひますけれども、このマレルブの方針は忠実に厳格に宮廷の中で実行されました。たゞ単語の整理ばかりではありません。色々な言廻しも、二様の意味に取れる言廻しを絶対に禁じました。かう云ふ命令は当然色々な反対を外部から受けてゐる。しかしマレルブはこの反対に耳を藉さず、飽くまでこれを実行する決心をもつて進んだのであります。ところが反対は次第に声をひそめて来ました。それは何故かと申しますと、このマレルブの取つた方針は非常に極端と思はれる程のものでありましたけれども、それによつてフランスの国民全体は思ひがけない利益を受けたからであります。さう云ふ言葉の制限はフランス語を言葉として非常に貧しいものにしはしないか、それこそ言葉の泉を涸らすやうなものだと云ふ一見甚だ穏当と考へられる意見も民間の一部の識者からは出たのであります。しかしこの心配は今日までのフランス語の歴史を通じてみますと、やがて次の時代に立派に解決されてゐるところがなかなか面白いところだと思ふ。国民一般の言葉の純化整理がどうしてそれほど楽に出来たかと云ふと、丁度フランスの十七世紀と云ふのは、国民的な自覚の最も高潮に達した時代であつたと云ふことが第一の理由であります。別の言葉で申しますと、文芸復興以後勃然として起つた個人主義の思想が次第に衰微した時代であります。十六世紀は自我の発見と解放の時代で、日常生活に於ても、社会現象に於いても、個人主義的な主張の充満した時代でありまして、言語風俗から申しましても、各人が勝手気儘な言廻しを平気でしてをつた時代ださうであります。自然この時代はフランス国内でも言葉の恐るべき混乱が生れてをつたのであります。その時代の言葉の混乱無秩序を個人主義の思想に結びつけてゐるのがこの議論の面白いところだと思ひます。十七世紀になりますと、この個人主義の思想といふものが一時衰へました。国家意識の浸潤と社会生活の変革がその原因とされてをります。そこから、隣人と共通なものを求める一つの考へ方、理性の尊重がこの十七世紀の一つの時代色になつてをります。かう云ふ時代の風潮が言葉の統制純化と云ふことを非常に容易にしたのだと云ふ議論は強ち牽強附会ではないと私は思ふのであります。この時代に、御承知のやうに例のアカデミーが創立せられました。さうして、このアカデミーがマレルブの仕事を受継いでフランス語の標準化といふ事業を完成しました。辞書の編纂、文法の確立であります。そのアカデミーの最初の討論がまた非常に興味があるのでありますが……先づ最初討論の議題となつたことは、フランス語の隣国の言葉に対する優越を確保する方法如何といふことでありました。これは当時フランスは領土的にも所謂国威を発揚した時代でありまして、フランス語が隣国に侵入する機会も多く、また隣国人が自から進んでフランス語を習得するといふことをどうしても考へなければならぬ時代であつた。しかしながら、単に武力を背景としてフランス語を習はせるとか、或は利害の問題からこれを学ぶといふだけでは心細い。なんとかして、フランス語自体の優越性によつて隣国人を惹きつけねばならぬ。フランス語の美しさに対する一種の憧れをもつてこれを学ばうとするやうに仕向ける必要がある。当時のフランスの学者達はかう考へたのです。非常な達見だと思ひます。その中の一人で、ヒューレと云ふ人は、「既に我が国語は他の総ての言葉に比して十分完成してゐるのであるから、こゝで一種の注意をエロキユーシヨンの上に払つたならば、恐らくラテン語がギリシヤ語を継いだ如く、我がフランス語はラテン語に継いで世界標準語となり得るだらう」と云ふことを述べてをります。しかし恐らく、これは当時既に国力に自信をもつてゐたフランス人の誇張された宣言だと思ひますけれども、それはやがて或る部分実現される結果になるのであります。そのアカデミーで編纂した辞典は、フランス語の標準になる言葉、現在日本で使つてゐる標準語と云ふのとは少し意味が違ふかも知れませぬが、標準になる言葉を選択し、正確に意味づけ、限定された用例を挙げてをります。この標準になる言葉とは教養のある人達の間で使はれる言葉と云ふ意味なのであります。このアカデミーの辞典に対して普通の辞典が市場に普及してゐる。この普通の辞典は一般民衆が自然に使つてゐる言葉を網羅するといふところが違つてゐるのです。或はそれ/″\の専門語を集めた辞書もその外にある。さう云ふ辞書に対してアカデミーでは標準になる言葉と云ふものを規定してゐるのであります。その編纂には非常に苦心を払ひましたけれども、やつと十七世紀の終りになつて初版を出し、さうして今日迄八回それが改修されてをります。一九三一年から三四年にかけて現在のアカデミーの会員の手に依つて第八版が出てゐる。それで今日までフランスに於いて標準になる言葉はアカデミーの辞典に依るといふことが先づ常識になつてをります。何かお互の言葉遣ひについて疑問が起ると、結局アカデミーの辞典に解決を求めるといふことが現にフランス人の間で行はれてをります。アカデミーの辞典にさうあるなら、さうして置かうといふ程度にはなつてをります。やはりこのアカデミーの編纂員の一人だつたと思ひますが、ヴォオジユラといふ人は、フランス語についてかういふことを言つてをります。「言葉の主人《あるじ》といふものは唯一人だ。即ちそれは慣例だ」慣例= usage =一般に用ひ慣れた言葉を標準にする以外に言葉を純化する有効な手段はない。従つて誰かが作り出し、誰かが決めた言葉を一般に使はせようとすることは絶対に無理なことだ。さういふはつきりした標準を持つてゐたやうであります。それともう一つは、アカデミーのこの規格は完全に宮廷の中で守られてゐた。従つてアカデミーで許されてゐる言葉以外の言葉を使ふ宮廷人は軽蔑され、或は排斥もされたのであります。この十七世紀に於けるフランス語の純化運動は所謂古典語なるものを作り出したのでありますが、意識的に統制されたフランスの古典語は、日本に於ける古典語とはよほど性質が違ふのであります。この古典語の完成といふことは、それが一般国民の上に徹底して、言葉の標準になる時期まで待たなければなりませぬ。古典語の創造者は矢張り時間を必要とすると云ふことをその当時から認めてをつたやうであります。しかし結果から見まして、この十七世紀に於けるフランス語の純化運動と云ふものは、少数の識者の力に依つてそれが有効に行はれたばかりではなく、実は国民の中にさう云ふ要求が既に無意識にでも存在したのだと云ふことを国語史の著者は指摘してをります。従つてこの少数の識者のこしらへた言葉の上の規則と云ふものは、実は民衆が意識しないで示してゐる言葉の上の現象と一致してゐるといふのでありまして、これ果して、それらの識者が、先見の明なり、或は一種の透徹力をもつてゐたからであるかどうかは、今日まだ疑問としなければならぬかも知れませぬが、さう云ふ一致が其処に見られる。十七世紀の精神は十六世紀の享楽を追ふ個人主義的生活から徐々に禁慾的な生活の讃美と云ふことに傾いて行きましたし、また感情を主とする行動と云ふものが漸時卑しめられて、理性と意思の力といふものが色々な面で尊重されだした時代であります。また、十七世紀は義務の履行と云ふことが特に強調された時代でありました。これがデカルトの哲学を生んだ一つの雰囲気であります。面白いのはかう云ふ時代精神は、言葉の自然の変化の中に現はれてゐると云ふことを、私はこの書物で教へられて驚いてゐるのでありますが、例へば……フランス語の例で十分説明はつきかねますが、十六世紀の頃には、自分の意見を述べるのに、相手の立場といふものを必要以上に考慮にいれる習慣がありました。それが個人々々の感情を尊重する形で表はれるのです。
今、自分より身分の高い対手と、婦人の品定めをするやうな場合、自分の意見を云ふのに、日本の現代の言葉に強ひて訳しますと、「甲の方が乙よりも綺麗なのぢやないかと思ひます。」日本には現在さう云ふ言廻しがあります。この云ひ方は相手の思惑を斟酌した云ひ方で、非常に感情的です。これが十六世紀的表現であります。十七世紀になると、それがなくなつた。自分は甲の方が綺麗だと思へばきつぱり「甲の方が綺麗だと思ひます。」と云ふ。この言ひ方は、理性的です。意志的です。「ぢやないか」と云ふやうな廻りくどい表現が十七世紀にはなくなつてゐると云ふことをこの国語史は明らかにしてゐる。これは十七世紀といふ時代が自然に行つた言葉の改革です。或はさうかも知れませぬ。そこで考へることは、言葉と文化、時代精神と云ふことであります。
十六世紀文化、十七世紀文化、それぞれ同じフランス一国内で考へて見ても、言葉それ自体の相貌が、それを或る程度示してゐる。時代精神が言葉の上に反映して来ると云ふことが我々には面白く考へられるのであります。たゞ何時の時代でも国民の下層階級と云ふものは元来知的な努力を好まない。従つて言葉の純化統一といふ風なことをいきなり国民の下層階級までそれを徹底させるといふことは恐らく不可能だといふことを既に実験者としてフランスの学者は告白してゐるやうであります。フランスに於けるこの言葉の純化と云ふ運動は先程申しましたやうに宮廷に出入する人々を標準として行はれた。それが重要なことであります。十七世紀に於いては、これが即ち今日の所謂知識階級に相当する社会層であつたと云へます。モリエールなどは自分の戯曲を見せる相手としてはつきり頭の中にこの階級を意識してゐたのでありますが、とにもかくにも、この階級には、ひとつの矜りがあつたといふことが、何よりの便宜でありました。感情の上でも理性の上でも選ばれた人達、別の言葉で言ふと優れた教養を持つ人達と云ふ風に自他共に許してゐたのであります。さう云ふ人達を相手として言葉の純化を試みたのであります。しかもマレルブに従へば、言葉そのものは、「波止場の人夫にも解る」といふことを標準にしたところが、注目に値します。それともう一つは、一般に言葉の進化は社会の発展より何時でも少しづゝ遅れてゐると云ふことをフランスの言語史は、語つて居ります。ところで、このフランス語の純化運動は、マレルブから徐々に企てられて、十七世紀には既に、正しく而かも美しいフランス語の創始者が幾人か生れてゐる。今日古典作家と云はれるラシイヌ、モリエール、パスカルはその雄たるものであります。フランスはこれらの作家の手に依つて所謂純粋なフランス語と云ふものを生み出しましたが、その特色は単純で、優雅で、明晰である
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