カデミーで許されてゐる言葉以外の言葉を使ふ宮廷人は軽蔑され、或は排斥もされたのであります。この十七世紀に於けるフランス語の純化運動は所謂古典語なるものを作り出したのでありますが、意識的に統制されたフランスの古典語は、日本に於ける古典語とはよほど性質が違ふのであります。この古典語の完成といふことは、それが一般国民の上に徹底して、言葉の標準になる時期まで待たなければなりませぬ。古典語の創造者は矢張り時間を必要とすると云ふことをその当時から認めてをつたやうであります。しかし結果から見まして、この十七世紀に於けるフランス語の純化運動と云ふものは、少数の識者の力に依つてそれが有効に行はれたばかりではなく、実は国民の中にさう云ふ要求が既に無意識にでも存在したのだと云ふことを国語史の著者は指摘してをります。従つてこの少数の識者のこしらへた言葉の上の規則と云ふものは、実は民衆が意識しないで示してゐる言葉の上の現象と一致してゐるといふのでありまして、これ果して、それらの識者が、先見の明なり、或は一種の透徹力をもつてゐたからであるかどうかは、今日まだ疑問としなければならぬかも知れませぬが、さう云ふ一致が其処に見られる。十七世紀の精神は十六世紀の享楽を追ふ個人主義的生活から徐々に禁慾的な生活の讃美と云ふことに傾いて行きましたし、また感情を主とする行動と云ふものが漸時卑しめられて、理性と意思の力といふものが色々な面で尊重されだした時代であります。また、十七世紀は義務の履行と云ふことが特に強調された時代でありました。これがデカルトの哲学を生んだ一つの雰囲気であります。面白いのはかう云ふ時代精神は、言葉の自然の変化の中に現はれてゐると云ふことを、私はこの書物で教へられて驚いてゐるのでありますが、例へば……フランス語の例で十分説明はつきかねますが、十六世紀の頃には、自分の意見を述べるのに、相手の立場といふものを必要以上に考慮にいれる習慣がありました。それが個人々々の感情を尊重する形で表はれるのです。
今、自分より身分の高い対手と、婦人の品定めをするやうな場合、自分の意見を云ふのに、日本の現代の言葉に強ひて訳しますと、「甲の方が乙よりも綺麗なのぢやないかと思ひます。」日本には現在さう云ふ言廻しがあります。この云ひ方は相手の思惑を斟酌した云ひ方で、非常に感情的です。これが十六世紀的表現であります。十七世紀になると、それがなくなつた。自分は甲の方が綺麗だと思へばきつぱり「甲の方が綺麗だと思ひます。」と云ふ。この言ひ方は、理性的です。意志的です。「ぢやないか」と云ふやうな廻りくどい表現が十七世紀にはなくなつてゐると云ふことをこの国語史は明らかにしてゐる。これは十七世紀といふ時代が自然に行つた言葉の改革です。或はさうかも知れませぬ。そこで考へることは、言葉と文化、時代精神と云ふことであります。
十六世紀文化、十七世紀文化、それぞれ同じフランス一国内で考へて見ても、言葉それ自体の相貌が、それを或る程度示してゐる。時代精神が言葉の上に反映して来ると云ふことが我々には面白く考へられるのであります。たゞ何時の時代でも国民の下層階級と云ふものは元来知的な努力を好まない。従つて言葉の純化統一といふ風なことをいきなり国民の下層階級までそれを徹底させるといふことは恐らく不可能だといふことを既に実験者としてフランスの学者は告白してゐるやうであります。フランスに於けるこの言葉の純化と云ふ運動は先程申しましたやうに宮廷に出入する人々を標準として行はれた。それが重要なことであります。十七世紀に於いては、これが即ち今日の所謂知識階級に相当する社会層であつたと云へます。モリエールなどは自分の戯曲を見せる相手としてはつきり頭の中にこの階級を意識してゐたのでありますが、とにもかくにも、この階級には、ひとつの矜りがあつたといふことが、何よりの便宜でありました。感情の上でも理性の上でも選ばれた人達、別の言葉で言ふと優れた教養を持つ人達と云ふ風に自他共に許してゐたのであります。さう云ふ人達を相手として言葉の純化を試みたのであります。しかもマレルブに従へば、言葉そのものは、「波止場の人夫にも解る」といふことを標準にしたところが、注目に値します。それともう一つは、一般に言葉の進化は社会の発展より何時でも少しづゝ遅れてゐると云ふことをフランスの言語史は、語つて居ります。ところで、このフランス語の純化運動は、マレルブから徐々に企てられて、十七世紀には既に、正しく而かも美しいフランス語の創始者が幾人か生れてゐる。今日古典作家と云はれるラシイヌ、モリエール、パスカルはその雄たるものであります。フランスはこれらの作家の手に依つて所謂純粋なフランス語と云ふものを生み出しましたが、その特色は単純で、優雅で、明晰である
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