。従つて各人の言葉遣ひは真先に型にはまり、無難でなければならぬと云ふことを考へる――知らず識らずさういふ頭で物を云ふことが心理的に一般日本人を支配してゐると思ひます。
今度は結果でありますけれども、さう云ふ個人々々の表現の貧しさ、固苦しさ、粗雑さ、さう云ふものが、現代日本の社交なるものを非常に殺風景な、不活溌なものにしてゐる。少し敏感な者は人の前で下手なことを言ふまいと消極的な努力をする。少し神経の太い者は人の前で平気で無軌道な放言をし、一座を白けさせる。これが現代日本の著しい現象だと私は認めます。そこで、普通の社交と云ふものゝ中には月並な挨拶と御座なりが瀰漫してゐるのであります。是が第一の点。
もう一つは、言葉と云ふものの機能とそれからその言葉の機能の限界とについて一般の認識が足りないことであります。口で喋つたり文字で書いたりしたことを必要以上に重大に考へる癖が今の日本人にはある。これは言葉の力、微妙な作用に対して非常に勘が鈍くなつてゐる証拠であります。つまり「かう云ふことをいつた」といふことと「かういふ風に言つた」と云ふことの違ひがはつきりしない。これはまた現代の日本人が過去から受け継いだ一つの形式主義に繋るものだと思ひます。これも例を挙げると沢山ありますけれども、例へば今日の時局が国民にさう教へるある種の忌むべき言葉があるとします。その忌むべき言葉の範囲が非常に漠然としてゐる。漠然としてゐるから、国民は戦々恟々としてゐる。例へば「俺は自由主義者だ」とでも云へば大変だと考へてゐる。戯談にでもそんなことは云へないやうに思つてゐる。元来、そんなことぐらゐ云つても何んでもないので、唯それを如何に言つたかと云ふことが重大なのであります。かういふ誤つた判断は言葉の機能の限界と言ふものに対する認識の不足から来るものだと思ひます。そこからまた、スローガンと思想との混合、取違ひ、さう云ふものが生れて来ますが、また其処から、標語と云ふものの価値が過重に評価され、従つてその濫造と云ふ弊が生れて来ます。
更に図書の検閲、言論の取締と云ふものの標準について、これは検閲を受ける者、検閲する者、両方にそれぞれ一つの困難な課題が生じて来ると思ひます。これは我々が一般にもう少し考へてもいいのぢやないかと思ひます。
第三に、活きた言葉と死んだ言葉と云ふものがまだ無選択に使はれてゐる。或る
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