人は死んだ言葉を使つてゐて、それが死んだ言葉であると云ふことを知らないでゐる。これも困つたことだと思ふのであります。社会的に生命のある言葉は常に民衆の生活から生れて来る。その生活を反映するのはヂヤーナリズムと文学だと思ひます。現在ある人の使つてゐる言葉――無論文章を含めてゞありますが、それに依つて、その人がヂヤーナリズム、或は現代の文学にどの程度に接触を保つてゐるかと云ふことがすぐにわかる。官吏や政治家などは実にその点、面白いくらゐにわかります。少くとも知識層だけについてみますと、かういふことが云へるのは、日本だけではないかと考へます。民衆を相手とする職業である場合には、その人の言葉遣ひに依つて民衆が動かされるかどうかと云ふことがほゞ見当がつく。或は少し言ひ過ぎかも知れませぬけれども、現代の政治に魅力がないと言はれる、その原因の一つは、政治の衝に当る者が社会的に生命のある言葉を使つてゐるものがごく少いからだと私は私流の考から、さう結論を下してゐるのであります。そこで前に申上げましたやうな三つの理由から、私はわが国語の改良問題の根本は、言葉そのものに手を着けると同時に、言葉に対する一般の観念の向上、これが重要な仕事ではないかと思ふのであります。民衆は無意識に既にこれを求めてゐる。言葉と云ふものはどう云ふものであるか、また言葉は元来、自分たちのもので、全国民の間で共通に使はれるものでなければならぬと云ふことを民衆は本能としてこれを承知してゐると思ふのであります。そこに目醒めることの最も遅いのは現代の日本の指導階級ぢやないかと私はひそかに思つてをります。これが先づ文学者として私が現代の日本語について考へてゐることであります。
 最後にこの国語と云ふものの改良の方針、その技術と云ふことについて、素人考で考へますと、先づ日本語をどんな国語にしようと云ふのかと云ふことが第一の疑問になるのであります。そこで次に起つて来る問題は、日本語のどういふところが主な欠点か。第三はその欠点を除くと同時に長所が失はれはしないかと云ふ事、これがまた問題であります。先づこの三つの疑問でありますが、これは疑問に過ぎませぬけれども、この疑問は、たまたま私が最近読みました書物によつて更に深められました。その書物といふのは、あるドイツ人の書いたフランス国語史でありまして、そのなかの十七世紀から十八世紀にか
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