言葉と云ふことになりませうが、その一例として「創作」と云ふ言葉を文壇ヂヤーナリズムの上では小説と云ふ意味に使つてをります。勿論、一つの綜合雑誌の創作欄と云へば、小説も戯曲も載せるのですが、唯「創作」と云ふと小説と解するのが常識になつてゐる。これなども一つの用語の混乱だと思ひます。以上のやうな現象が平然として行はれ、また私自身もさう云ふ現象の中で仕事をしてゐるのでありますから、今日の文学者は、概して、二三の特志家を除けば、厳密な意味でわが国語の正しい使ひ方、正しい発展と云ふ風なことについて口巾つたいことは言へないのであります。
 以上のやうな前置をした上で、私は少し文学者として見た現代の日本語と云ふものについて申上げて見たいと思ひます。現代の日本語は色々な性格を持つてゐるのでありますけれども、その性格はどう云ふところから生れて来たのかと云ふことは非常に面白い研究になると思ふのであります。併し私はまださういふ研究はしてをりませぬし、唯そこに面白い研究題目があると云ふことだけ気がついてゐるのであります。そこで更にもう一歩進めて、現代の日本語の言葉としての弱点を、寧ろ現代の日本語が使はれてゐる状態の中に見出して、いつたいこれでいゝのかと思ふことが度々あります。その弱点について私の気のついたことを一つ二つ挙げてみますと、先づ一般に現代の日本人は言葉をほんたうに自分のものにしてゐないと云ふことを言ひたいのであります。「言ひたいこと」と「言つてゐること」との間のギヤツプが常に感じられる。即ち紋切型、月並な辞礼と云ふものが非常に多過ると云ふことになるのだと思ひます。それは実際に於て感情が言葉から游離してゐると云ふことであります。場合によつてはそれ/″\の人の思想が言葉に依つて裏切られてゐると云ふことになると思ふのであります。例へば現実の問題を非常に神秘的な表現で、有難く思はせやうとすると云ふやうな傾向が生れて来る所以も其処にあると思ふ。これは現代語と云ふものの基準が今日までまだはつきり立てられてゐないこと、つまり各自の職業身分等によつて使用する言葉の領域が非常に限定されてしまつてゐる。社会の各部門の共通の言葉と云ふものが完全に出来あがつてゐない。さう云ふことが一つの原因であります。またもう一つの原因はこの言葉遣ひがその儘その人の身分階級を示すと云ふやうな因襲に一方で縛られてゐること
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