ます。この地方語の特殊な魅力と云ふものが、作品を成る程或る場合には非常に面白くしてをります。その面白くしてゐる原因は、さう云ふ田舎の言葉で語る人物の生活が都会人にとつては目新しいといふ場合もありませうし、特殊な風俗習慣の描写といふことがその作品の魅力になつてゐる場合もありますけれども、もう一つ、この地方語そのものが自から持つて居る一つの魅力と云ふものが考へられます。私の見解では、地方語に依つて書かれてゐる作品の魅力は、結局その作品を書いた作家が自分自身の言葉で書いてゐると云ふことにあるのだと信じてをります。と云ふのは、その地方語を使つて会話を書いてゐる作家は、実は標準語を使つて書くよりも言葉を適切に選択し、活々と駆使し得て、その結果、表現に力と味ひとが出て来るのだと私は考へます。それは一面かう云ふことになります。つまり同じ作家が会話を標準語で書くよりもその作家が若し地方出身の人ならば、その自分の生れた土地の言葉で書く方が自由である。即ち極端に議論を進めて行くならば、その作家はまだ標準語と云ふものを十分自分のものにしてゐないと云ふことになる。また同時に、東京語が大体標準語の基礎になつてゐるものと考へられますけれども、而かもそれがまだ標準語として日本では十分権威づけられてゐないことにもなると思ひます。少くとも会話の文章の上では私はさうだと思つてをります。
 第三の現象は、日本の現在の文壇が既にその文壇の特殊語と云ふものを生みつゝあると云ふこと、つまり文壇だけで通用すると云ふやうな言廻し、更にそれが作家である場合に、知らず識らず使つて居る一つの言葉の癖、さう云ふものが既に生れつゝあると云ふこと、これは文学の畑ばかりではありませんが、ある職業は、必ずその職業の臭ひを帯びた言葉使ひを生む。それが日本では甚だしいやうに思はれます。ちよつとした例ですが、「かう云ふ風なこと」と普通言ふ場合に「かうしたこと」と云ふ言ひ方をする。これなどは殆ど現在一般に若い人の間で使はれてゐますが、この言ひ方は民衆の間から起つた言葉でなくて、文壇の習慣がヂヤーナリズムを通じて一般化したものだらうと思つてゐます。それから「かう云ふ感じの云々」、これなども矢張りさうではないかと思ひます。それからもう一つは、文壇ヂヤーナリズムを通じて用語の混乱と云ふことが見られるのであります。用語の混乱と云ふと多少専門的な
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