いて一つの定見を有つてゐるに違ひない。その定見は、何等かの方法で、早晩われわれの前に提示されることであらう。それにしても、統一ある上演目録によつて先づ之を暗示しさうなものである。
かういふことは考へられないこともない。築地小劇場は民衆の為めの劇場である。故に民衆芸術の唱道者ロマン・ロオランの戯曲は、その劇的価値の優劣に拘はらず、民衆の糧となり得べき性質のものである、如何と。
万一さういふつもりなら、僕は築地小劇場に「さよなら」を言ふであらう。
いや、いや、そんな筈はない。
ロマン・ロオランの戯曲が、戯曲として本質的の欠陥を蔵し、一般のレベルから見ても平凡極まるものであることは、まあ先生の戯曲を原文で読んで見ればわかる。退屈しますよ。訳文になるとさうでもないとおつしやるのですか。それは何の証拠にもなりません。「悪いもの」ほど翻訳されると割が良いのですから。
『狼』は下らない戯曲だとする。それなら、演出はどうか。そのことについてお前はなんにも云はないな。演劇としてはどうか。それは戯曲『狼』の価値と関係はない。かう築地小劇場は云ふに相違ない。
人は何といふか知らないが、僕は一向感心しなかった[#「かった」はママ]。第一、それは必ずしも演出者の技倆を軽視することにならない。なぜなら、つまらない戯曲からは、つまらない演劇しか生れない道理であるから。それならば此の演出者は、どの程度まで戯曲『狼』のつまらなさを救つてゐるか。――救はうとした努力は見える。然しそれは徒労に終つてゐる。不快な比喩かも知れないが、騎手土方氏は悍馬『狼』の背に跨つてゐるといふだけである。然し、悍馬と思つた『狼』は、その実駑馬であつた。一歩進んでは止り、二歩進んでは止る。太い頸を垂れて道ばたの草を食ふ。鞭があたる。少しは痛いと見えて、尻尾をぴくんとさせる。動かない。
報告、説明、主張、咏嘆、教訓――それ以外になにもない戯曲こそ滅ぶべきである。さういふ演劇こそ「鬼に呉れてやる」べきである。
また苦情ばかり並べ立てた。云ふまでもなく、悪口の為めの悪口ではない。僕は築地小劇場の存在を心から感謝するものである。――実際、此の劇場が無かつたら、僕は、もう劇評などゝいふものをしたく無くなつてゐるだらう。
底本:「岸田國士全集19」岩波書店
1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「我等の劇場」新潮社
1926(大正15)年4月24日発行
初出:「演劇新潮 第一年第八号」
1924(大正13)年8月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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