手は好んで悍馬を御する例しもあり、エキリブリストは大道を歩むより針金を渡ることを快とするかも知れない。然しながら、その心理を以て直ちに芸術家の――暫くかう呼ばして下さい――心理を計るのは無礼である。要するにロマン・ロオランの名を信じ過ぎた罪のない誤りではあるまいか。
 僕の言ふ「非戯曲的」と云ふ意味は、築地小劇場のいふ「演劇」なるものゝ内容はた本質と更に関係の無いものであるかも知れない。かも知れないではない、きつとさうに違ひない。――どんなつまらない戯曲でも、一度、優れた演出者の手にかゝれば、立派な演劇になるわけである。――かう極端に論じつめなくつてもいゝ。実際、そんな筈はないのだから。――そして、実際、築地小劇場は、どの劇場にも増して、上演目録の選択に腐心してゐるのだから。――それなら、一体、どういふ戯曲があなた方の上演慾をそゝり、あなた方の目ざしてゐる「理想の演劇」に応《こた》へ得る戯曲ですか。――『海戦』のやうなものですか。『白鳥の歌』のやうなものですか。『休みの日』のやうなものですか。さては此の『狼』のやうなものですか。――その何れにも共通な、「或る本質的なもの」、さういふものを有つてゐる戯曲と答へられるでせう。――よろしい。それならば、『白鳥の歌』と『狼』とに、本質的に共通な点がありますか。戯曲としてゞすよ。
 築地小劇場が、チェホフの一短篇を上演目録中に加へたことに同感ができる僕は、『狼』を加へたことに全然同感ができない。チェホフの戯曲の戯曲的価値を――所謂文学的価値ではない――認め得る人が、ロマン・ロオランの戯曲を買ふ筈はないと思ふのである。また反対に、ロマン・ロオランの戯曲に劇的価値ありと主張する人が、チェホフをその傍に並べることは頗る不合理である。これは、ロオランが好きか嫌ひかの問題ではない。
 固より「新しき演劇」への第一歩である。築地小劇場が、その同人の数こそ多けれ、演劇に対する同一信条を抱いて結合してゐる以上、此の点にぬかりがあつてはならない。僕は、ひたすら、チェホフとロオランとの戯曲に、倶に含まれてゐるかも知れない「明日の演劇」の要素を、此の若い劇団の手によつて何時か示して貰ふことを期待してゐる。皮肉ではない。僕の現在もつてゐる演劇本質論は、「今日までの演劇」を基礎として、その進化の跡を辿り、消長の原因を尋ねて得た結論に過ぎないのである。

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