繰り返して言ふ。優れた演劇が「優れた戯曲」の「優れた演出」から生れることに異論はあるまい。然しながら、「優れた戯曲」は常に「優れた演出」を予想して書かれたものであることを忘れて欲しくない。従つて、「優れた戯曲」を選ぶことは「優れた演出」の根本要件であることを肝銘しなくてはならない。たゞこゝで、築地小劇場が、これから試みようとする「新しき演出」に、われわれのいふ「優れた戯曲」を要しないと云はれゝばそれまでゞある。それなら、その「新しき演出」の為めに必要な「優れた戯曲」とは如何なるものか、これが、問題である。興味のある問題である。
 僕は、主として仏蘭西の芝居を通して、演劇の如何なるものかを学んだ。従つて、見聞は甚だ狭いわけである。然し、個人的趣味乃至民族的努力を別にして、演劇の本質的価値といふやうなものは、古今東西を通じて、それほど差異があらうとは思はれない。時代時代を劃する反動的運動の如きは、大局から見て第二義的の問題である。希臘劇の優れた劇的要素は、形と色に於てこそ別種のものであれ、シェクスピイヤの戯曲にも、ラシイヌの戯曲にも、ミュッセ、イプセン、ストリンドベリイの戯曲にも、チェホフの戯曲にも、それぞれ之を見出すことが出来ると思つてゐる。それは、優れた劇的作品のみが有する霊感の閃きである。主題と結構と文体との微妙な結合が、渾然として醸し出す雰囲気の流れである。生命のリズムである。感情の必然的飛躍である。顫慄の波である。
 優れた演出とは、優れた戯曲の有する本質的価値を遺憾なく舞台上に表現することでなくて何んだ。新しき演出、結構である。たゞ、戯曲の本質的価値を無視した演出は全然「無くてもいゝもの」である。
 アントワアヌ以後、欧洲の劇壇に新しき運動を齎した名ある舞台芸術家は、演劇の本質についてそれぞれ異りたる見解をもち、或るものは演伎上の写実主義に、或るものは舞台の絵画的表現に、或るものは俳優の人形化に、或るものは舞台と観覧席との障壁排除に、また或るものは舞台の様式化による観念的演出に、何れも演劇の要素を見出さうとした。而も、未だ嘗て戯曲そのものゝうちに、一切の劇的効果を求め、俳優をして、舞台装置家をして、「戯曲に奉仕する」観念を第一信条とせしめないで、真に優れた舞台芸術を創造したものがあることを聞かない。
 築地小劇場の首脳は、言ふまでもなく、演劇の本質問題につ
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