ふ、演劇の価値は戯曲の価値によつて根本的に左右される――なぜなら、演出者が、純然たる芸術的立場より脚本を選択する以上、平凡な戯曲、愚劣なる脚本を敢て上演することは、上演者そのものゝ劇芸術に対する眼識を疑はしめるばかりでなく、かくの如き上演者が、真に優れた上演者であり得る筈はないからである」――「戯曲は文学の一部門である。それはわかつてゐる。しかし、戯曲であることをよそにして、戯曲の文学的価値を論ずるものがあつたら、それは批評家ではない。舞台的因襲に縛られた上演の効果問題は別である。現在の演出者では上演出来ないと思はれる戯曲にも、優れた戯曲があり得る。これこそ、「どうにかしなければならない戯曲」である。」――「演劇は文学ではない。勿論である。氷は水ではない。雲も水ではない。」――「詩や小説を批難する時にさへ、此の詩は、此の小説は、文学の臭ひがする、と云へないことはない。」――
 此の二つの議論は、共に新しいものではなさゝうである。今日まで、欧羅巴に現はれた新劇運動の大勢に通じてゐる人は、はゝあ、それぞれやつてゐるなと思ふだらう。全くその通りである。こんなことでは駄目だ。机上の空論では駄目だ。その意味で築地小劇場が、一つのプリンシプルを土台として、華々しく旗挙げをした壮図に先づ敬意を表する。そして、僕は、そのプリンシプルをプリンシプルとして攻撃することを止め、着々進みつゝあるだらう処の計画の実現、一歩一歩理想に近づきつゝあるだらう処の努力の結果を見て、言ふべきことを言ふつもりである。
 扨て、築地小劇場の第二回公演はどうか。前にも述べた通り、ロマン・ロオランの戯曲を此の劇場が選んだ理由は、略《ほゞ》想像がつくのである(女優のいらない脚本として選んだといふことは、主要な理由にならない。また、したくない)。処が、その自然らしく思はれる選択方法のうちに、奇怪なる矛盾を含んでゐることを感じるものはないか。それはロマン・ロオランの戯曲が甚だ「文学」の域を脱しないものであることである。演劇から文学を排除する運動、云ひ方がわるければ、演劇をして文学より独立せしめる運動、更に言葉を換へて云へば、演劇をして最もそして純粋に、演劇たらしめる運動と目すべき築地小劇場が、戯曲と云ひ得るものゝうちで最も「文学臭味」の多い、最も「非戯曲的」な戯曲の一つを選んで上演したと言ふことである。
 巧みな騎
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