覚」の幼稚、貧困、乃至は磨滅でありませう。
 さて、この「文化感覚」でありますが、これは不思議なことに、現代日本に於ては、教育の程度や、社会的地位の高下とは聊かも関係がないのであります。山間の陋屋に住む無学な一農村青年が、堂々たる名士の講演を聴いて、趣旨はよくわかり、少しも異存はないが、どうもあの調子や言葉使ひが妙に気になると、首をひねつてゐるのです。聴いてゐる方で恥しくなるとも云ふのです。なぜかと問へば、正確な返答はできません。しかし、あゝいふことを云ふなら、あゝでなく云つてほしいといふ気持です。これはもう立派な「文化感覚」です。つまり、講演者の「文化的教養」を正確に評価する勘がそこにみられます。多分、紋切型の演説口調と、言葉の濫用による示威的な表現から一種の「卑俗さ」を嗅ぎつけ、これは意外だと思つたのでせう。
 道徳的な低さは、道徳的でない、或は道徳がないこととは少し違ひます。これも詳しく話さなければなりませんが、問題が少しわきへ外れますから、こゝでは触れないことにして、更に、道徳的な低さと並んで、「卑俗さ」の原因となるものに、芸術的な低さがあります。これも厳密に云へば、芸術的でな
前へ 次へ
全47ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング