と名づけることすら憚りありとするのが「道徳」であり、逆に、これを強ひて犠牲的行為とみなし、少くとも、敢て「美談」として吹聴するやうな精神は、「不道徳」とは云へないまでも、頗る低い道徳意識だとしなければなりますまい。
 かゝる道徳観、道徳意識によつて導かれたあらゆる行為、あらゆる事業は、常に、その表現の空疎で月並な感激調と共に、最も「卑俗な」臭気をあたりに撒きちらします。ところが、かういふ臭気は世間にひろがり易く、多くの人々はそれに馴らされて、しまひにはそれを「道徳の臭ひ」だと思ひ込むやうになります。営利主義が「道徳」と結ぶのは、この虚に乗ずるよりほかはありません。
 政治も亦、国民大衆を導く便法として、屡々この種の「卑俗さ」を利用したといふ風にも見えますが、実は、政治そのものの陥つた「卑俗さ」が、期せずして「俗衆」のみを対象とせざるを得なかつたのが従来の傾向であります。
 思ふに、この「卑俗さ」は、単に道徳的な面だけでなく、一般に、綜合的な意味で、例外なく、「文化感覚」の鈍さ、乏しさを示してゐるのでありまして、すべての物象を通じて「卑俗さ」の主たる原因となるものは、恐らく、この「文化感
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